
ジンナーの頑なな要求とマウントバッテンの苦悩
ジンナーはパキスタンの創設を強硬に求め、それ以下の条件は一切受け入れようとしなかった。一方、ガンディーとマウラナ・アブル・カラーム・アザドは、いかなる代償を払ってでもパキスタンを与えたくなかった。そのためマウントバッテン総督は決断を下せずにいた。統一インド(アカンド・バーラト)に統治権を委ねて去るべきか、それともパキスタンをジンナーに与え、両国に別々の権力を引き渡すべきか――である。
どちらを選ぶにせよ、彼は二つの点を考慮しなければならなかった。第一に、イギリス軍とイギリス人将校がその家族とともに安全にインドを離脱できること。第二に、宗派暴動がインド全土に拡大し、数千万もの無辜のインド人が犠牲になった責任をイギリス側に問われる事態を避けることである。総督自身の地位と名誉さえも、危機に瀕していたのだ。
エドウィナ夫人の助言
そんな折、マウントバッテンの妻エドウィナは、宗派暴動に見舞われた地域を視察した。虐殺された人々の遺体を目にしたエドウィナは、深い衝撃を受けた。視察から戻った彼女は、夫にこう説いた。
「インド国民会議は、インド分割を決して自発的には受け入れないでしょう。しかし、数百万人殺害の責任をイギリス人が負いたくないのなら、強制的にでもインドを分割すべきです。そうすれば、会議の指導者たちもやむなく受け入れることになります」
ガンディーの最後の抵抗
エドウィナの意見に同意したマウントバッテンは、インド分割についてガンディー、ネルー、パテルと話し合いの場を持った。ガンディーは、いかなる状況下でもインド分割を望まなかった。1947年3月3日、彼は「インド分割は私の死体の上で行われるのだ」とまで断言した。しかしパテルとネルーは、宗派暴動の惨状を目の当たりにし、分割という不可避の現実を受け入れる道を選んだ。
ソロモン王の知恵――「国全体をジンナーに与えよ」
これを受けてガンディーは、マウントバッテンとの間で延べ14時間に及ぶ6回の会談を行った。ラリー・コリンズとドミニク・ラピエールは、著書の中で次のように記している。
「ガンディーは繰り返しマウントバッテンに、自分はインドを分裂させないと語った」
ガンディーは分割阻止に並々ならぬ執念を燃やし、かつてソロモン王が示した知恵と同じ考えに行き着いた。すなわち――子どもを二つに切り分けてはならない。国全体をジンナーに与えてしまえ、というのである。
「ジンナーにはムスリム連盟を率いて政権を樹立させ、この国の三億の市民を統治させればよい」
これに対しマウントバッテンは答えた。
「この提案について、国民会議の正式な承認を取り付けることができるなら、私も検討する用意があります」
ネルーとパテルの反対、そして分割決定へ
マウントバッテンとの会談を終えたガンディーは、早速ネルーとパテルにこの提案を伝えた。ところが二人ともガンディーの案に強く反対し、提案の撤回を求めたのである。こうして1947年6月3日、マウントバッテンはインド分割計画を正式に発表した。
ジンナーは歓喜に打ち震えた。生涯にわたる敗北を重ねた末、彼はついに勝利を手にしたのである。