ドイツの侵攻と、インドを巻き込む戦争
第一次世界大戦での屈辱的な敗北の雪辱を果たそうとしたドイツは、ヒトラーの指導の下、1939年に強力な軍事力でイギリスおよびその同盟国へ攻撃を仕掛けた。ドイツ軍がポーランドへ侵攻すると、これを阻止する必要が生じ、イギリスとその同盟国はドイツに宣戦布告した。
そしてイギリスは、インド国民の意思を問うことなく、インドをこの戦争へと引きずり込んだのである。
苦しい立場に立たされた国民会議派
国民会議派(インド国民会議)は奇妙な立場に置かれた。第一次世界大戦の時も、イギリスはインド国民に何ら相談することなくインドを世界大戦に巻き込み、ガンディーは副王との合意のもと、インドの青年たちを軍に募集する運動を展開していた。今回も同じことが繰り返されようとしていた。
このイギリス政府の対応に憤った国民会議派の各州政府は、そろって辞任した。ここでサルダール・パテルは明確な声明を発表する。「イギリスはまずインドを直ちに解放すべきである。その後に初めて、第二次世界大戦への協力をインドに求めるべきだ」と。
ところが、パテルがこの声明を発表するや否や、ガンディーはパテルに反対の立場を取った。ガンディーは「危機の瀬にある今こそ、インドはいかなる条件も付けずにイギリスに協力すべきだ」と主張したのである。
副王の巧妙な自治宣言
イギリス政府は、ガンディーが自説を唱え続けることはあっても、今回はパテルの強硬な態度があるため、無条件の協力を会議派に納得させることはできないと判断した。そこで1939年10月16日、副王は巧妙にも「第二次世界大戦終結後、インドには完全自治を検討しうる」という宣言を行った。
パテルはこれに鋭く反応し、こう述べた。
「戦争がどういう結果に終わるのか、誰に分かるというのか。もし大戦後、別の勢力がインドの土地を占領したなら、イギリスはどうやって約束を守るつもりなのか。与えるつもりなら、今日与えよ」
マハトマ・ガンディーは再びパテルに反対した。
パテルの苦>パテルの苦悩と揺るぎない忠誠
これに対してパテルは心を痛め、こう語った。「私の完全自治の要求に何の欠陥があるのか、私には見当たらない。それでも、私の懇願をもってしてもバプー(ガンディーへの敬称)が同意されないのであれば、私はこの要求を忘れ、彼の命令に一切従う覚悟である」。
しかし、その頃にはガンディーを除く国民会議派のほぼ全体が、パテルの論理に賛同していた。
ラージャージーが遺した評言
チャクラヴァルティ・ラージャゴーパーラーチャーリー(ラージャージー)はかつてこう述べている。
「私はガンディーの盲目的な信奉者だ。しかしパテルは、彼の優れた信奉者の一人であり、すべてをはっきりと見通せる大きな目を持っている。それでありながら、時には現実から離れて、ガンディーを盲目的に模倣してしまうのだ」。
ラージャージーのこの言葉は、またしても正しいことが証明されようとしていた。パテルの主張は明らかに理にかなっていたが、彼はガンディーの命令に服する用意を完全に整えていた。サルダールは、他の誰かに会議派を率いてほしくなかったかのように見えたのである。