歴史上の人物

サルダール・パテル、ボルサドで政府の横暴に抗する前例なき運動を指導

サルダール・パテル、ボルサドで政府の横暴に抗する前例なき運動を指導

ボルサドは、サルダール・パテルが長年活動の場としてきたゆかりの地(カルマブーミ)であった。ところがある日を境に、そこで窃盗事件が相次ぎ、強盗による襲撃が頻発し、その他の犯罪も急増していった。住民が政府に対し犯罪者の一斉取り締まりを求めると、政府は逆に「ボルサドの人々は臆病で従順だから犯罪が多くなるのだ」と住民側を非難したのである。

警察と強盗の癒着――不当な追加税の正体

政府は「警察力の増強」を名目に、ボルサドの住民へ年間24万ルピーという追加税を課した。人々はこの措置をヴァッラブバーイーに訴えた。サルダール自身が調査に乗り出すと、驚くべき事実が判明した。アリーという名の強盗団の首領が、警察長官に対し「政府が即刻逮捕しようとしている犯罪者の確保に協力する」と密かに約束していたのだ。その見返りとしてアリー一味は好き放題に略奪を働き、警察長官以下警察当局全体がそれを黙認していたのである。

さらにヴァッラブバーイーは、ボルサドの警察が強盗アリーの一味に武器を供給していることまで突き止めた。一方では警察が強盗と通じ、他方では政府が「警察力増強」の名目で16歳以上の住民一人ひとりから2ルピー7アンナの税を徴収して経費を賄うという、あまりに奇妙な構図だった。税を納めなかった者は、家畜や土地を差し押さえられ、多くの人々が捕らえられて投獄された。

飢饉と弾圧の二重苦

強盗と警察の横暴がボルサドを襲っていたその頃、不幸にも同地域は深刻な飢饉に見舞われていた。泣きっ面に蜂とはこのことだ。一方では盗賊・強盗が略奪し、他方では政府と警察が搾取し、さらには自然までが飢饉という脅威をもたらした。地域全体が悲鳴を上げる中、サルダール・パテルは人々に対し、困難に耐え抜き、政府への追加税を決して支払わないよう呼びかけた。

『ナヴジーヴァン』に掲載された訴え

政府がボルサドの人々を武力で弾圧しようとしたとき、ヴァッラブバーイーは1923年12月9日付の新聞『ナヴジーヴァン』に声明を発表し、ボルサド郡の問題をグジャラート全土に知らせて支援を訴えた。

「政府はボルサドおよびアーナンド郡の無実の人々に25万ルピーの罰金を課した。同時に500の村々に警察部隊が配備されている。これに抵抗し、人々はサティヤーグラハ(非暴力不服従)の実施を決意した。」

よそから呼ばれた警察官が各村に配置され、その一部は住民へのさまざまな暴虐を働き始めた。強盗の恐怖に苦しんできた人々は、今度は警察の恐怖に閉ざされた。女性たちの名誉にすら手が掛けられた。パトワーリー(村の記録係)には直ちに差し押さえを実行せよとの命令が出され、早期に取り立てを済ませた者には褒賞まで約束されていた。「このような苦難の中にある人々を慰め、その悲しみに寄り添うことが今こそ必要だ」と訴えは続く。

青年たちへの呼びかけ

「これはグジャラートの青年たちが民衆に奉仕する絶好の機会である。ボルサドでの奉仕を望む者は、至急、州委員会書記宛てに志願書を送ってほしい。この闘いには資金も必要だ。グジャラート自らがボルサドの運動に十分な資金を提供できると私は信じている。協力を希望される方は、グジャラート州委員会宛てにご寄付いただきたい」――ヴァッラブバーイー・ジャベールバーイー・パテル

グジャラート全土が動いた

この訴えは、グジャラートの人々に魔法のような効果をもたらした。人々は遠近から続々と駆けつけ、サティヤーグラハに参加し始めた。商人たちは店を閉めてボルサドの人々に同情を示した。差し押さえを逃れるため、農民たちは家畜を連れて森へ逃れ、女性たちは銅や真鍮の器を隠して土器で暮らした。ボルサド運動は頂点に達したのである。

ヴァッラブバーイーは、いかなる組織にも頼らずにこの運動を指運動を指揮していた。一方には弾圧に慣れ切った強大な英国政府の支配機構があり、他方にはどんな運動にも指導力を発揮できるサルダールの卓越した人格があった。政府の弾圧によって人々が打ち砕かれることを恐れた彼は、村から村へと渡り歩き、情熱的な演説を繰り広げ、不正を前に屈しないよう人々を鼓舞した。その演説は民衆に新たな希望を吹き込み、政府と戦う勇気を植え付けた。

新知事の調査と税の撤廃

運動が長引いて成果を挙げられないでいたとき、幸運がサルダール・パテルを見舞った。当時ボンベイ州知事が交代し、サー・レスリー・ウィルソンが新知事として着任したのである。ある日、彼は新聞でサルダール・パテルの演説を目にした。そこには警察の犯罪への関与が暴露され、ボルサド警察長官が発した「窃盗や強盗の事件には注意を払うな」と警察官に指示した秘密通達の存在が明らかにされていた。

サー・レスリーは実態を究明するため、内務担当のサー・モーリス・ヘイワードをボルサドに派遣した。ヘイワードは地域一帯を巡り、各地で人々と語り合って事実関係を調べ、その過程であの秘密通達をついに入手した。ボンベイに戻ったヘイワードは報告書を知事に提出し、そこには「サルダール・パテルの主張はすべて事実である」と記されていた。知事は即座に行動を起こし、1924年1月8日、不当な税を正式に撤廃した。サルダール・パテルは、この公正な措置に対して知事に感謝の意を表した。

「ボルサドの王」の称号

これは、サルダールがその人格と誠実さの力だけで成し遂げた輝かしい勝利であった。人々がこの運動でサルダールに示した前例のない支援は、まさに想像を超えるものだった。ガンディーはこの成功を高く評価し、サルダールに「ボルサドの王(ラージャ)」の称号を与えた。

それまでサルダール・パテルはグジャラートの各地で運動を展開し、手がけたすべての運動を転換点まで導いてきた。一方、当時のガンディーの運動はまだ一つとして成功を収めていなかった。チャンパーランの農民は完全な救済を受けられず、非協力運動も中途で中止された。イスラム教徒が推進したキラーファット運動も非協力運動と結びついていたため失敗に終わり、ムスリムたちは「ガンディーはキラーファット運動を挫折させるために非協力運動を中止したのだ」と感じていた。そのためガンディーは各方面から批判を浴びる一方、サルダール・パテルの成功譚は全国の新紙に掲載され、彼は瞬く間に国中の憧れの的となっていったのである。