歴史上の人物

シヴァージーの本格的な政治進出と領土拡大

シヴァージーがプネー・ジャギール(領地)の管理を父シャージーから任され、独自の政治的・軍事的活動を開始してから、ビジャープル王国やムガル帝国と対峙しながらデカン地方で勢力を拡大していく過程を描く。

ジャギール統治の改革と情報網の構築

シャージーは生前はシヴァージーをジャギールの唯一の代理人とし、死後は正式な領主とすることを約束した。シヴァージーは農業振興を最優先し、農民の収入増と紛争減少に努めた。各村にコートワール(村役人)と共に夜警制度を導入し、新たな果樹園を造成、迅速な紛争解決機構を整えた。宗教行事を盛大に執り行わせ道徳心を高揚させ、全村に密偵を配置してあらゆる動向を把握した。

ヒンドゥー独立への志

母ジジャーバイはムスリム支配者たちを一族の不幸の元凶とし、ヒンドゥーの窮状も彼らの誤政にあると説いた。シヴァージーは成長するにつれ、ヒンドゥー教徒がムスリムに敬意を払うほど迫害される現実を目の当たりにし、ムスリム王朝を打倒し、プロージャ・ヴァツァラ(民を愛する)ヒンドゥー王権を樹立する決意を固めた。チャンドラグプタ、サムドラグプタ、スカンダグプタ、マハラーナ・プラタップらの物語を聞き、自らも彼らのような王になる夢を抱くようになった。

ジャギール巡視の際には青年たちを集めヒンドゥー文化の再興とヒンドゥー国家建設を説き、聖典の学習と武芸の習得を奨励した。「我々は偉大な国の勇敢な子孫だ。宗教と民と国家を守るため武器を取ろう。この聖業を始めれば神は必ず助け、ヒンドゥー・ラシュトラを実現できる」と訴え、民衆の心を掴んだ。マーヴァル地方の青年たちは彼の下で生きがいを見出し、奴隷意識から解放され自由への闘志を燃やした。

コンカン地方の把握と最初の城塞攻略

1632年、コンカン地方のジャギールがシャージーに与えられ、シヴァージーがその管理を行った。5年間の継続的な巡視でコンカンの山々、森林、河川、河口、山岳通路を熟知した。この地には多くのムスリム城主がいたが、シヴァージーは自らの城を築き、彼らの城を奪取できると確信するようになった。

ダーダージー・コーンデーヴの警告

シヴァージーが妻や母に告げず数日間山中でマーヴァルの仲間たちと演習を重ね、城奪取を画策していることがコーンデーヴの耳に入った。彼はシヴァージーを呼び、「君はアーディルシャーの家臣の代理人に過ぎない。主君に逆らうような真似をすれば一族が危うい」と警告した。シヴァージーは静かに聞いたが、決意は揺るがなかった。

トーラナ城の奇襲

遂にシヴァージーは仲間と共にトーラナ城を奇襲、制圧した。ビジャープルから問いただされると、「ビジャープル国家の安全のため、盗賊から城を解放し、ムガルへの防衛を強化した」と弁明。シャージーの保証もありアーディルシャーはこれを容認した。

埋蔵金の発見と軍備増強

トーラナ城修復中、壁から大量の金貨を含む莫大な埋蔵金が発見された。シヴァージーは「ヒンドゥー国家建設を始めれば神助がある」と語っていたが、まさに神の加護と受け止め、この資金で給金制兵士を募り、武器と馬を揃えた。

ライガド城の築城

次なる夢である理想の城づくりに着手。高山に新城を築き「ライガド」と命名した。これがビジャープルに知れ、アーディルシャーはシャージー経由で築城中止を命じたが、シヴァージーは両親の命にも従わず工事を続行した。

ビジャープル王国の動揺と連戦連勝

1646年、アーディルシャーが病床に伏し10年間政務不能に陥ると、宮廷内で権力抗争が起き統治が緩んだ。シヴァージーは好機と見てビジャープル領の城々を次々と攻略していった。

スパ城攻略と義理の叔父の捕縛

プネー近くのスパ城は、シャージーの後妻の兄サンバージー・モヒテーが城主だった。シヴァージーは協力を求めたがモヒテーはビジャープルに忠誠を守り、シヴァージーの動向を密告した。激怒したシヴァージーは夜襲をかけ、400人の守備兵を退け城と財宝を手中に収め、モヒテー一族を捕虜とした。シヴァージーは親族情からモヒテーを説得し城と財宝の返還を約束したが、彼が頑として拒んだため、父シャージーのいるバンガロールへ送った。

コーンデーヴの最期と祝福

スパ城獲得で3城を領したが、シヴァージーはビジャープルの出方を窺って一時静観した。コーンデーヴはシヴァージーの才覚を認め、「貴殿の道は正しい。私が間違っていた。異民族支配を終わらせるのは貴殿だ」と謝罪し祝福して1647年3月に没した。シヴァージーを作った二人の男(シャージーとコーンデーヴ)の一人が去り、以後はジジャーバイの指導の下で独自の道を進むことになる。

ビジャープル領城塞の相次ぐ陥落

コーンデーヴの祝福を受け自信を深めたシヴァージーは、「多くの城主がヒンドゥーの勇士である以上、彼らの血を流さず帰順させる」と誓い、流血を最小限に多くの城を奪取した。

プラーンダル城の知略による獲得

国境の要衝プラーンダル城は、シヴァージー家と縁戚のニールカンタ・サルナーヤクが守っていた。シヴァージーは攻撃を避け、許可を得て城下に兵を置いていた。ある日、サルナーヤク家で兄弟間の争いが起き、ニールカンタがシヴァージーを仲裁に招いた。ディーワーリーの日、シヴァージーは手勢を連れ城に入り、兄弟を寝床ごと拘束。「ビジャープルを見限り我に仕えよ。城はサルナーヤク家に残す」と迫った。兄弟は拒んだが、2〜3ヶ月粘り強く説得し続け、ついに帰順させた。以来サルナーヤク家は忠誠を守った。

カリヤン城と財宝の強奪

密偵から「カリヤン城の財宝がビジャープルへ移送される」との情報を得たシヴァージーは軍を二手に分け、ムッラー・アフマドの護送隊をプラーンダル近くで襲って財宝をライガドへ運び、もう一方はムッラー帰還前にカリヤン城を急襲、城とムッラー一族を捕らえた。

ムスリム女性への慈悲と軍律の厳正化

捕虜の中に絶世の美女ムッラーの息子の妻がいた。将軍アヴァージー・ソーンデーヴが彼女を轿(かご)でプネーのシヴァージーへ送り届けると、「若きシヴァージーはこの美女を得て喜ぶだろう」と期待した。シヴァージーはその美貌を称えつつ、「神よ、これほど美しい姿を造り給うたことに感謝する。わが母もこれほど美しければ、私もこれほど美しかったろうに」と言い、女性をムッラーの元へ返し、ソーンデーヴを厳しく叱責して「二度と女性を捕虜にするな」と命じた。この事件以降、軍律は一層厳しくなり、シヴァージー生存中、マラーター兵が軍律を乱すことはなかった。

プラーバルガド城の攻略

版図はプネー・スパから海岸まで広がった。パンヴェル近くのプラーバルガド城(城主ケサリー・シン)も無血開城を図ったが失敗し、激戦の末ケサリー・シン以下守備隊は全滅。城からは金貨、金塊、ホン(金貨単位、1ホン=4ルピー)の巨額財宝が秘蔵場所から発見された。

敵の母への最大級の礼遇

ケサリー・シンの母と二人の子が城内に隠れていたのを兵士が捕らえると、シヴァージーは即座に地に伏し最敬礼(シャシュタンガ・プラナーム)し、轿を用意して護衛付きで故郷デーヴル村へ送り返した。さらにケサリー・シンらの葬儀をヒンドゥー儀礼で厚く執り行った。この振る舞いは軍に深い感銘を与え、シヴァージーに接した者で彼への敬愛を抱かぬ者はいなかった。

「トランプのように次々と袋に落ちる城塞」

詩人ブーシャンは「城々を勝ち取りしシヴァージー・ガーズィー、山々の上でシャンダ・ムンダ(悪鬼)どもが踊り狂う」と謳った。シンガド、トーラナ、チャーカン、コンダーナ、プラーンダル、クンバルガド、パーナーラー、カングーリー、ツンガ、ティコーナ、ブールアップ、カウンディ、ローガル、ラージマンディ、カリヤーニ諸城、チャーカンからニーラー川流域までがシヴァージーの版図となった。新たにヴィーラヴァリー城とリンガナートガド城も築いた。

父シャージーの投獄と釈放

1645年、シヴァージーの活動を知ったアーディルシャーは、シャージーが黒幕と判断し、同族のバージー・ゴールパデーを使ってシャージーを食事に招き騙し討ちにし、ビジャープルの厳重な獄に入れた。「シヴァージーを止めろ」と強要されたが、シャージーは無実を訴え続け、クートゥブシャー(アーディルシャーの誤記か)は聞き入れなかった。

父の投獄を知ったシヴァージーは活動を停止し、自ら出頭して父と代わろうとしたが、妻サーイバーイが「父子ともども捕まれば生き残れない」と諫め止めた。シヴァージーはムガル皇帝シャージャハーンに助けを求めた。シャージャハーンはアーディルシャーに釈放を命じたが拒否。当時デカン総督だったアウラングゼーブが圧力をかけ、シャージーの友ムラールパントが「シヴァージーの行動にシャージーは無関係」と説得。シヴァージーも「父が釈放されるならシンガド(旧コンダーナ)を返す」と提案。結局4年間の投獄の後、1649年5月16日、カルナタカの情勢悪化もありシャージーは釈放され、旧職とカーナタカのジャギールを回復した。

ムガル帝国の誘いを退ける

かつてムガルに仕えたシャージーだったが、4年間の投獄を経てムガルへの恩義はない。1649年8月14日、シャージャハーンの息子ムラードが父子に仕官を誘う書簡を送った。「父の罪を許し、忠誠に対して恩賞を与える。5000騎のマンスブを授け、父の旧官位も復す」との内容だった。シヴァージーは父の釈放と引き換えにシンガドを渡しており、ムガルの恩義などないとして、父子ともに返事を出さなかった。

北のムガルと南のシーア勢力の間で

シヴァージーは北のムガル(スンニ派)と南のビジャープル(シーア派)の双方を敵と見なし、冷静に版図を広げた。勝利に驕らず、「一度に一つの敵と敵対すべし」との原則で、ここまでビジャープル領のみを攻めてきた。ビジャープルへの憎悪は、ヴィジャヤナガル帝国滅亡後に生まれた小ヒンドゥー諸国への虐殺と、父の無実の投獄にあった。1653年アウラングゼーブがデカン太守となると、シヴァージーとの融和を図り会見を求めたが、シヴァージーは多忙を理由に断った。

ジャーヴリー地方の平定

シヴァージーの拡大に業を煮やしたアーディルシャーは、将軍シャームラージに「シヴァージーを殺せ、あるいは捕らえよ」と命じた。シャームラージは大軍を率い、アーディルシャーの有力領主チャンドラーラーオ・モーレの領地ジャーヴリーへ向かった。モーレもシヴァージーの停止を望み協力した。シヴァージーの密偵網は二人の動きを逐一報告し、シヴァージーも万全の備えをした。

シャームラージはシヴァージーの宿営地周辺の森に潜み、通過時に包囲殲滅を狙った。シヴァージーは罠を見抜き、自ら罠を断つ決断を下す。熟睡する敵陣へ夜襲をかけ、シャームラージは準備不足のまま大半の兵を失い、わずかな手勢で逃亡した。狩人気取りで来たシャームラージを、自ら仕掛けた死の罠にかけた形となった。

チャンドラーラーオ・モーレの排除とジャーヴリー獲得

モーレは古代マウリヤ朝の末裔を称し、シヴァージーは同族のヒンドゥー王家として友好を望み挑発にも耐えてきた。だがシャームラージに加担した以上、排除せざるを得ない。武力で制圧も可能だったが、「ヒンドゥーの勇士の命は奪わぬ、力は温存せよ」との主義から計略を用いた。

給金奉行ラグナート・バッラールを縁談使者としてモーレへ派遣し、自らは軍を率いてジャーヴリーの森に潜伏。1656年1月26日、ラグナートは選抜の剣客25名を連れモーレ城へ赴き、翌日の詳細協議を取り付けた。翌27日、城内の別室でチャンドラーラーオと弟スーリヤラーオのみと面会したラグナートは、隠し持ったカタールで両名を刺殺。戸惑う門番を欺き森へ脱出した。報せを受けたシヴァージーが森から城へなだれ込むと、モーレ軍は瞬く間に崩壊、二人の息子が捕虜となり、ジャーヴリー城はシヴァージーの手に落ちた。広大な領地・財宝・ライガド城(後の首都)を得た。

アーディルシャーの死とアウラングゼーブの激怒

1657年、10年病床にあったアーディルシャーが没し、18歳のアリー・アーディルシャー2世が即位した。

アウラングゼーブがアフマドナガルの城々を飲み込む一方で、シヴァージーはビジャープルの城々を蝕んでいた。両者はやがて衝突することを認識していた。狡猾なアウラングゼーブは現状維持を図り、1657年4月22日付書簡で「貴殿がすでに占領するビジャープルの城々を正式に認め、ダーボル城とその収益も与える。さらなる要望も聞き入れ、想像以上の恩寵を与える」と持ちかけた。

シヴァージーはこの上から目線の書簡に激昂し、ムガル領ジュンナルを襲撃・略奪、さらにアフマドナガルへ攻め込んだ。激怒したアウラングゼーブは全デカン駐屯将に「シヴァージー領に侵攻し、村々を焼き払い、容赦なく殺戮し、略奪せよ。プネーとチャーカンのジャギールを完全に破壊し、殺害と奴隷化に手心を加えるな」と命じた。

ムガル軍がシヴァージー領を蹂躙し始めると、シヴァージーはシャージャハーンに訴え、ムガルの介入と破壊活動に抗議した。シャージャハーンはアウラングゼーブの過度な活動を快思わず、「デカンの平穏を保て。ビジャープルおよびその領主への破壊活動をやめよ」と命令した。

ムガル帝位継承戦争の隙を突く

1657年9月、シャージャハーンの病が全国に知れ渡ると、アウラングゼーブの関心はアグラの皇位争奪へ移った。この隙にシヴァージーは1657年10月24日、カリヤンとビワンディを占領。1658年1月にはマーフリ城を落とし、海岸から山岳地帯まで旧ニザムシャーヒー・コンカン全域の支配者となった。カリヤンとビワンディはアウラングゼーブがムガル領として編入していたため、彼は激しい屈辱を味わったが、北上する途上でビジャープルのアリー・アーディルシャー2世へ「この国を守れ。ここへ忍び込んだシヴァージーを追い出せ。彼を雇うならカーナタカの遠地を与え、ここの平和を乱させぬようにせよ」と焦燥の書簡を送るのみで、以降数年間シヴァージーに目を向ける余裕はなくなった。