ブルターニュのアンヌとは
ブルターニュのアンヌ(Anne de Bretagne、1477年〜1514年)は、ブルターニュ公フランソワ2世の一人娘として生まれました。11歳で父を失い、ブルターニュ公国の相続人(女公)となった彼女は、中世末期からルネサンス期にかけてのヨーロッパ外交史において、極めて重要な役割を果たすことになります。
ハプスブルク家との婚約とシャルル8世の侵攻
1490年、アンヌはオーストリアのマクシミリアン(後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世)と代理結婚を結びました。これは、フランス王国からの独立を守りたいブルターニュにとって、ハプスブルク家との同盟による自国防衛という戦略的な一手でした。
しかし、この縁組に強く反発したフランス王シャルル8世は、直ちに軍をブルターニュへ差し向けます。フランス軍はブルターニュの主要都市の大半を次々と制圧し、ついにはアンヌが避難していたレンヌを包囲しました。
シャルル8世との結婚
摂政アンヌ・ド・ボージュー率いるフランス側の軍事的圧力の前になすすべもなく、アンヌはハプスブルク家との婚約を破棄し、1491年にシャルル8世と結婚せざるを得なくなりました。この結婚により、ブルターニュは事実上フランス王国の影響下に置かれることになります。なお、アンヌはこの際の結婚契約で「夫に先立たれた場合は、次代のフランス王と再婚する」という条項を盛り込んだことでも知られています。
ルイ12世との再婚と長女クロードの婚姻問題
1498年にシャルル8世が急死すると、アンヌは契約どおり、王位を継承したルイ12世と再婚しました。二度のフランス王妃となった彼女でしたが、心は常に故郷ブルターニュの独立維持に向かっていました。
アンヌは長女クロードをハプスブルク家のカール(後の神聖ローマ皇帝カール5世)と結婚させることで、ブルターニュをハプスブルク家のもとで存続させようと画策します。しかし、ルイ12世はこの構想に断固として反対し、クロードは最終的にフランス王太子(後のフランソワ1世)と婚約させられました。
晩年と死、そして公国の運命
1514年、アンヌは37歳でこの世を去りました。自らの手でブルターニュ公国の将来を確保できないままの死でした。彼女の死後、公国は娘クロードを通じてフランス王位継承者の手に渡り、ブルターニュの独立は完全に失われていくことになります。