ブリュヌ・ギョーム・マリー・アンヌ(1763年〜1815年)

ブリュヌ・ギョーム・マリー・アンヌ(Guillaume Marie Anne Brune、1763年3月13日 - 1815年8月2日)は、フランス革命から第一帝政期にかけて活躍したフランスの将軍です。革命前夜には印刷工として働きながら政治運動に関わり、コルドリエ倶楽部のメンバーとしてジョルジュ・ダントンと親交を深めました。
革命の波濤の中で頭角を現す
1795年(共和暦4年ヴァンデミエール)、パリで王党派が蜂起した「ヴァンデミエールの反乱」の鎮圧に際し、ブリュヌはバラスや当時まだ無名だったナポレオン・ボナパルトとともに国民公会側で戦いました。この功績を足がかりに軍隊内で名声を高めていきます。その後、イタリア戦役に従軍し、さらに西部フランスで激化していたヴァンデの内乱の鎮圧にも尽力しました。
栄光と冷遇の間で
再びイタリアへ戻ったブリュヌは、名将マッセナの後任として方面軍の指揮を執ります。しかし、揺るぎない共和主義者であった彼は、権力を固めるナポレオンにとって疎ましい存在となりました。バラスとナポレオンは彼を中枢から遠ざけるため、オスマン帝国(トルコ)への大使という閑職に任命します。1804年には元帥の称号を与えられましたが、以降も重要な指揮官職からは外され続けました。
白色テロ下の悲劇的な最期
1815年、ナポレオン失脚後の王政復古期、「白色テロ」と呼ばれる王党派による報復の嵐がフランス全土を席巻していました。そのさなか、ブリュヌは南仏アヴィニョンで王党派の暴徒に襲われ、惨殺されます。彼の遺体はローヌ川に投げ込まれたといわれています。共和主義の信念を生涯貫いた将軍の、あまりにも悲劇的な結末でした。