歴史上の人物

アンリ・ド・ギーズ(1550–1588):カトリック同盟の盟主とその悲劇的な最期

アンリ・ド・ギーズ(1550–1588):カトリック同盟の盟主とその悲劇的な最期

アンリ・ド・ギーズとは

アンリ・ド・ギーズ(Henri Ier de Lorraine, duc de Guise、1550年 – 1588年)は、フランス宗教戦争期を代表するカトリック派の指導者です。名将として名を馳せたフランソワ・ド・ギーズ公の長男として生まれ、後にカトリック同盟(ラ・リーグ)の盟主としてフランス政界の中心に立ちました。

幼少期と家督相続

わずか13歳のとき、父フランソワ・ド・ギーズはユグノー(フランスのプロテスタント)派によって暗殺されます。以後、叔父にあたるロレーヌ枢機卿シャルル・ド・ロレーヌが彼の教育を担いました。若くして一族の長となったアンリは、「カトリック信仰の擁護者」を自任し、ユグノー勢力との対決姿勢を鮮明にしていきます。

宗教戦争での活躍

アンリは第2次・第3次宗教戦争に積極的に参戦し、宿敵コリニー提督率いるユグノー軍との戦いで頭角を現しました。ジャルナックの戦い(1569年)、ポワティエ防衛戦、モンクントゥールの戦い(1569年)などで目覚ましい武功を挙げ、武人としての名声を確立します。

サン・バルテルミーの虐殺への関与

1572年の「サン・バルテルミーの夜」には、パリで行われたプロテスタント指導者たちの虐殺に深く関与したとされています。この事件により、彼はカトリック過激派の象徴的存在となりました。

カトリック同盟の盟主へ

国王アンリ3世の治世下ではカトリック同盟の指導権を握り、1575年のドルマンの戦いでの勝利をきっかけに、民衆からの圧倒的な人気を獲得します。さらにスペイン王フェリペ2世との間でジョンヴィル条約(同盟条約)を締結し、国外にも強力な後ろ盾を得ることで、その政治的影響力を一層強めていきました。

バリケードの日と暗殺

1588年5月12日の「バリケードの日」では、パリ民衆の反乱を先導し、国王アンリ3世を首都から追い出すという前代未聞の事態を引き起こしました。この挑発が国王の怒りを買い、同年12月、ブロワ三部会の開催中にアンリ3世の命を受けた近衛兵によって暗殺されます。遺体は焼却され、灰はロワール川に流されたといわれています。彼の死は母方の従弟にあたる国王自身の運命をも左右することになり、翌1589年、アンリ3世もまた狂信的な修道士の手によって命を落とすこととなります。