はじめに
ヒューナルド(Hunald、生年不詳-756年)は、中世初期の西ヨーロッパにおけるアキテーヌ公として知られる人物です。父ウード(オド)の後を継いで公位に就き、フランク王国の実力者カール・マルテル、そしてその息子たちに対して反乱を起こしたことで歴史に名を残しています。
父ウードの後継者として
ヒューナルドは、トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)でイスラム勢力の侵攻を食い止めたことで名高いアキテーヌ公ウードの息子です。735年頃に父の跡を継ぎましたが、当時のアキテーヌはフランク王国からの独立志向が強く、事実上の独立勢力としての性格を持っていました。
カール・マルテル父子への反乱
ヒューナルドは公位就任後まもなく、フランク王国の宮宰カール・マルテルに対して反旗を翻します。しかしカール・マルテルの圧倒的な軍事力の前には抗しきれず、一時は服従を余儀なくされました。
741年にカール・マルテルが死去すると、その権力は息子たち――カールマンと小ピピン(ピピン3世)――によって分割されます。これを好機と見たヒューナルドは、再び独立の動きを強め、カール・マルテルの息子たちに対して反乱を起こしました。
グリフォンの支援
この反乱において、ヒューナルドは重要な同盟者を得ます。それが、小ピピンの異母兄弟であるグリフォンです。グリフォン自身も領土分割への不満を抱えており、ヒューナルドとの連携によってカロリング家の兄弟に対抗しようとしました。しかしこの反乱は最終的に鎮圧されました。
隠退と最期
小ピピンの軍事的な圧力に敗れたヒューナルドは、745年頃に公位を息子のワイフレ(Waifre)に譲り、自らは修道院へ隠退しました。しかし彼の闘志は消えたわけではなく、756年には修道院を離れて再び行動を開始したと伝えられます。同年、彼は殺害されました。一説には小ピピンの関与があったとも言われています。
息子ワイフレは父の遺志を受け継ぎ、アキテーヌの独立を守るために小ピピンやその息子カール大帝(シャルルマーニュ)と長く戦い続けましたが、768年に暗殺され、アキテーヌはついにフランク王国へ組み込まれることとなりました。
まとめ
ヒューナルドは、フランク王国の拡張に対してアキテーヌの独立性を守ろうとした抵抗者の一人です。彼自身の反乱は成功しませんでしたが、その闘争は息子ワイフレへと受け継がれ、アキテーヌの歴史において重要な一章を刻んでいます。