
ルイ・フィリップ1世とはどんな人物か
ルイ・フィリップ1世(Louis-Philippe Ier、1773年〜1850年)は、フランス七月王政の国王(在位:1830年〜1848年)です。「王権神授の君主」ではなく国民の代表として君臨する「フランス人の王(roi des Français)」を体現した最初の王であり、「市民王」「ブルジョワ王」という異名でも知られています。革命、亡命、即位、失脚と、波乱に満ちた一生を送った人物でした。
ヴァルミーの戦いから亡命生活へ
ルイ・フィリップは、フランス革命期に「フィリップ・エガリテ(平等公)」と名乗ったオルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフの息子です。若くして革命軍に身を投じ、1792年のヴァルミーの戦いに参加したのち、デュムーリエ将軍の副官を務めました。しかし翌1793年、将軍が敵方へ寝返ろうとした計画に連座する形でフランスを脱出し、以後はヨーロッパ各地や北米を渡り歩く不安定な亡命生活を余儀なくされます。
結婚と帰国、七月革命での即位
亡命中の1809年、ナポリ王家出身のマリー・アメリー・ド・ブルボンと結婚しました。ナポレオン失脚後の復古王政期に帰国を果たすと、パリのパレ・ロワイヤルを拠点に自由主義派の重鎮として影響力を高めます。そして1830年7月の七月革命では「王国中将(王国代理官)」に任じられ、絶対王政を敷くシャルル10世が退位に追い込まれると、議会の支持を受けて「フランス人の王」として即位しました。
保守路線への転換と相次ぐ反乱
即位当初、ルイ・フィリップは自由主義的な閣僚を起用し、穏健な改革を志向しました。しかし、ほどなくしてカジミール・ペリエが主導する強固な保守政権へと舵を切ります。ペリエの死後、政局は安定せず、共和派の蜂起、ベリー公爵夫人による正統王朝派(レジティミスト)の擁立運動、バルベスやブランキによる武装蜂起、さらにはルイ・ナポレオン・ボナパルト(のちのナポレオン3世)によるクーデター未遂など、重大な騒乱が相次ぎました。
フィーシュ事件とギゾー政権の専横
在位中、ルイ・フィリップ自身も幾度となく暗殺の標的となりました。なかでも1835年7月のフィーシュ事件は深刻で、パリでの国王行列を「地獄の機械」と呼ばれる連装銃で襲撃したもので、モルティエ元帥をはじめ多くの犠牲者が出ました。政治面では1840年以降、フランソワ・ギゾーが約8年にわたり国政の実権を握り、強権的な保守統治と言論統制を進めたことで国民の反発を一層招くことになります。
経済・道徳的危機と二月革命による退位
七月王政の政治は、選挙権を持つごく一部の上流ブルジョワジーの利益を優先する構造でした。労働者や中間層の不満が蓄積するなか、1840年代半ばからの農業恐慌と金融危機が追い打ちとなり、政権批判が全国的に広がります。腐敗や社会の道徳低下を指摘する声も強まり、国家は経済的にも精神的にも危機に瀕しました。こうした状況のなか、1848年2月に改革要求を掲げる民衆蜂起、すなわち二月革命が勃発。ギゾー内閣は倒れ、ルイ・フィリップは24日に退位を決断します。王太子フェルディナンは1842年に事故で亡くなっていたため、王位は孫のパリ伯フィリップへ譲られる予定でしたが、議会は共和政の樹立を選択しました。ルイ・フィリップはイギリスへ亡命し、1850年8月、同地で生涯を終えています。
前後のフランスの君主たち
ルイ・フィリップ1世の前任者は、ブルボン朝最後の国王シャルル10世(在位:1824年〜1830年)です。その反動的な統治が七月革命を引き起こし、結果として七月王政が誕生しました。一方、ルイ・フィリップの失脚後に成立した第二共和政では、普通選挙によってルイ・ナポレオン・ボナパルトが初代大統領に選ばれます。彼はやがて皇帝ナポレオン3世として即位し、フランスは再び帝政の時代を迎えることになりました。