歴史上の人物

マリー・アントワネット(1755年〜1793年):断頭台に散ったオーストリア生まれのフランス王妃

マリー・アントワネット(1755年〜1793年):断頭台に散ったオーストリア生まれのフランス王妃

ウィーンで生まれた皇女

マリー・アントワネットは1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの娘として、ウィーンで生まれました。16人兄弟の末娘として育ち、幼少期から優雅な教育を受けて成長しました。

1770年、わずか14歳でフランス王位継承者ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)と政略結婚し、オーストリアとフランスの同盟を象徴する存在としてヴェルサイユ宮殿へ嫁ぎます。1774年、ルイ15世の死去により夫が即位すると、18歳にしてフランス王妃となりました。

国民の信頼を失った王妃

しかし、彼女の王妃としての評判は決して良いものではありませんでした。豪華な衣装や宝石、賭博や舞踏会への耽溺といった浪費ぶりが「赤字夫人(マダム・デフィシット)」と揶揄され、国家財政の悪化とともに民衆の不満を買いました。

また、彼女はティルソーら進歩的な改革者たちの敵対者とみなされ、政治的にも軽率な判断を重ねたとされています。1785年に起きた「首飾り事件」では、実際には無実でありながら、詐欺師たちによる陰陰謀に巻き込まれたことで王室への信頼は決定的に損なわれ、彼女の人気は地に落ちました。

フランス革命と運命の日々

1789年にフランス革命が勃発すると、マリー・アントワネットは国王ルイ16世に対して強い影響力を持つようになり、革命勢力との妥協ではなく強硬な対応へと王を後押ししたとされます。さらに、母国オーストリアや外国勢力との密接なつながりが疑われたこともあり、「反革命的な裏切り者」として国民から激しく非難されることになりました。

1792年8月10日、チュイルリー宮殿が襲撃され王制が崩壊すると、王室一家はパリのテンプル塔に幽閉されました。翌1793年1月にはルイ16世が処刑され、彼女も同年8月にコンシェルジュリー牢獄へ移送され、厳しい取り調べを受けます。

最期の時

1793年10月16日、マリー・アントワネットは革命広場(現在のコンコルド広場)でギロチンによって処刑されました。37歳でした。獄中での屈辱的な扱いにもかかわらず、処刑台に向かうその姿には大きな威厳と気品があったと伝えられています。処刑人の足を踏んでしまった際に「ごめんなさい、先生。わざとではありませんのよ」と詫びた言葉は、彼女の最期の言葉として今も語り継がれています。

華麗な宮廷生活から断頭台へ——マリー・アントワネットの波乱に満ちた生涯は、絶対王政の栄光と崩壊を象徴する物語として、後世の人々に強い印象を残し続けています。