
メスの弁護士から革命政治家へ
マラン・ド・ティオンヴィル(本名:アントワーヌ・クリストフ・マラン、1762年-1833年)は、フランス革命期を代表する急進派政治家の一人である。故郷ティオンヴィルの名を冠して呼ばれるこの人物は、ロレーヌ地方の都市メスで弁護士として活動し、1791年の立法議会選挙で議員に選出されて政界へ足を踏み入れた。
ジャコバン派の最左翼として
ジャコバン派に所属した彼は、議会内でも最左翼に位置する過激な姿勢で知られていた。1792年8月10日には王政打倒を目指す民衆蜂起が勃発するが、マランはその暴動民の指導者の一人として中心的な役割を果たし、君主制崩壊への道を切り開いた。
国民公会と派遣議員としての活動
国民公会では山岳派(モンタニャール)に属し、革命防衛の最前線で活躍した。1793年には全権派遣議員としてライン方面軍に赴き、マインツ包囲戦の最中に同市での任務に当たった。包囲戦終結後には、内乱状態にあったヴァンデ地方へと派遣され、反乱鎮圧に関与している。
テルミドールのクーデターと反動への転換
1794年7月27日(共和暦テルミドール9日)、彼はロベスピエールの失脚に加担した。この時期のマランは、「黄金の青年」と呼ばれる反動的な若者たちと連携し、恐怖政治後の保守化の流れの中で行動するようになった。
ナポレオンへの反対と政界引退
ナポレオン・ボナパルトの権力掌握に対しては一貫して反対の立場を貫いた。1799年のブリュメール18日のクーデター後、彼は政界から身を引き、表舞台から退いた。晩年を静かに過ごし、1833年にこの世を去った。