ペピン1世(ペピン・オブ・ランデン、580年頃 – 640年)は、メロヴィング朝フランク王国の東部王国アウストラシアを代表する大貴族です。ムーズ川流域に広大な所領を所有し、後にカロリング朝へと連なる「ピピン家」の祖として、フランク史において重要な役割を果たしました。
ブルンヒルドとの対立とクロタール2世への支持
当時のフランク王国では、アウストラシアとネウストリアの諸勢力による激しい権力闘争が繰り広げられていました。ペピンはメス司教アルヌルフと手を結び、実権を握っていたアウストラシア太后ブルンヒルドに反対し、ネウストリア王クロタール2世を支持する立場を取りました。613年にブルンヒルドが失脚し、クロタール2世がフランク諸王国を再統一すると、ペピンはその功績によってアウストラシアの宮宰(マイヨール・ドミュス)に任じられます。
アルヌルフ家との婚姻同盟
ペピンは自らの娘ベッガを、盟友アルヌルフ司教の息子アンセジゼルに嫁がせ、両家を婚姻関係で強固に結びました。この結婚から誕生したのが、後のエルスタルのペピンです。その血統は孫のカール・マルテル、ひいては小ピピンへと受け継がれ、最終的にメロヴィング朝に代わるカロリング朝の開闢へとつながっていきます。
ダゴベルト1世との関係と晩年
クロタール2世の死後、ペピンは若き王ダゴベルト1世の顧問として重用されましたが、次第に王から疎んじられ、一時は政界の第一線を退くことになります。しかしその後、再びアウストラシア宮宰の地位を回復し、死去に際してはその職を息子のグリモアルド(大グリモアルド)に引き継ぎました。こうして確立されたピピン家の権威は、以後もフランク王国の政治を左右し続け、西欧中世史の大きな流れを形作る礎となったのです。