歴史上の人物

禿頭王シャルル2世――西フランク王から西ローマ皇帝へ

誕生と王位継承問題

シャルル2世(禿頭王、823年〜877年)は、カール大帝の息子である敬虔王ルイ1世が再婚した際に生まれた子でした。しかしこの誕生こそが、フランク王国の王位継承をめぐる深刻な争いの火種となりました。

禿頭王シャルル2世――西フランク王から西ローマ皇帝へ

父ルイ1世は、末子シャルルに広大な領土を与えて相続させようとしました。ところがこの決定は兄たちの猛反発を招き、833年の「嘘つきの野」の戦いでは、長男ロタールを擁立する形でルイ1世は一時廃位されてしまいます。その後、次男のルイ(後のドイツ人王ルイ)と三男のピピンは、長兄ロタールの勢力拡大を脅威と感じて態度を翻し、834年に父を王位へ復帰させました。

ヴェルダン条約と帝国の三分割

838年にピピンが死去すると、ルイ1世は新たな領土分割を実施しました(ヴォルムス条約、839年)。これに不満を抱いたルイ・ドイツ人は父への武力衝突を準備していましたが、840年にルイ1世が死去します。

その後、シャルルとルイ・ドイツ人は、あまりに強大になったと判断した長兄ロタールに対抗して同盟を結びました。841年のフォントノワ(フォンテネー=アン=ピュイゼ)の戦いで勝利を収め、842年の「ストラスブールの誓い」によって両者の同盟は正式に固められます。

そして843年、ヴェルダン条約により帝国は三人の兄弟の間で分割されました。シャルルは西フランク王国(現在のフランスの基礎となる地域)を獲得し、848年に国王として戴冠します。

治世の課題と外交

シャルル2世の治世は外敵との闘いの連続でした。ブルトン人との戦いでは、851年のアンジェ条約および867年のコンピエーニュ条約により領土の一部を割譲せざるを得ませんでした。また、845年にはノルマン人(ヴァイキング)によるパリ包囲という危機にも見舞われています。

一方で内政面では、ピトル勅令を発布して通貨の一元発行を定めるなど、国家の経済的基盤の整備にも力を注ぎました。

皇帝戴冠と立法者としての功績

870年には、855年に死去したロタールの旧領であったプロヴァンスとロタリンギアの一部を獲得しました。さらに兄弟のルイ・ドイツ人と再び対立しながらも、875年には西ローマ皇帝として戴冠を果たしています。

シャルル2世は優れた立法者としても名高く、数多くのカピテュラリア(勅令集)を残しました。中でもキエルジー=シュル=オワーズ勅令は、封土(レーン)の世襲相続を認めたものとして、中世封建制度の展開において極めて重要な意義を持っています。

プロフィール

  • 生没年:823年〜877年
  • 身分:国家元首
  • 称号:西フランク王
  • 称号:西ローマ皇帝