ニキータ・フルシチョフとは
ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ(1894年~1971年)は、スターリン死後のソ連を率い、「非スターリン化」と「平和共存」路線を掲げた政治家です。貧しい農村出身ながらソ連の最高指導者へと昇りつめた、ソ連史上でも特異な経歴を持つ人物として知られています。
貧しい出自から革命運動へ
フルシチョフは1894年、ロシア帝国のクルスク県にある貧しい農家に生まれました。少年時代は羊飼いとして働き、その後は炭鉱や工場で労働者として生計を立てていました。1917年のボリシェヴィキ革命(ロシア革命)に参加し、ここから彼の政治的人生が始まります。
党幹部への出世
その後、本格的に政治の道へ進んだフルシチョフは、1934年にソ連共産党中央委員会の委員となり、1937年には最高会議(最高ソビエト)の議員に選出されました。労働者階級出身という経歴は、スターリンにとっても有用な人材であり、彼は急速に党内部での地位を固めていきました。
第二次世界大戦での活躍
第二次世界大戦(独ソ戦)では、ウクライナ防衛とスターリングラード攻防戦において重要な役割を果たしました。これらの戦功により将官の階級を授けられ、軍事面でも名声を高めることとなります。
第一書記就任と非スターリン化
1953年、スターリンの死を受けてフルシチョフはソ連共産党第一書記に就任し、実権を握りました。彼はスターリン時代の個人崇拝や数々の犯罪を公に糾弾し、「非スターリン化」政策を積極的に推進します。また外交面では対話を重視し、西側諸国との「平和共存」を唱える路線へと転換しました。
首相就任と改革の挫折
1958年には首相(閣僚会議議長)に就任し、党と国家の双方の頂点に立ちます。しかしその後、農業改革は思うような成果を挙げられず、対外政策でも深刻な失敗を経験することになりました。とりわけ1962年のキューバ危機は重大な局面でした。米国を照準に定めたソ連のミサイル発射施設のキューバへの配備が発覚すると、ケネディ米大統領はその破壊・撤去を求める最後通牒を突きつけ、世界は核戦争の瀬戸際に立たされたのです。
失脚と晩年
こうした一連の失策により、フルシチョフは1964年に全ての要職から解任され、政界から退きました。1971年、モスクワの病院で心臓発作のため死去。国葬は執り行われず、クレムリンの城壁墓地への埋葬も許されず、モスクワ市内で静かに葬られました。
1894年~1971年

プロフィール
職業:政治家