歴史上の人物

マリア・パラド・デ・ベジード――ペルー独立の女英雄

ペルー独立の女英雄、マリア・パラド・デ・ベジードの生涯

マリア・パラド・デ・ベジードの生誕地については、多くの歴史家がワマンガ(現アヤクーチョ)出身としていますが、カルロス・カルデナス司祭はカンガージョ教区で彼女の洗礼証明書を発見したと主張しており、それによれば1761年に同地で生まれたことになります。

夫マリアーノ・パラド・デ・ベジードと息子の一人は、カンガージョ県パラス地区の郵便部門に勤務し、反乱軍のカイエタノ・キロース大佐率いるモントネーラ(ゲリラ部隊)に加わっていました。当時すでに60歳を超え、読み書きもできなかったマリアでしたが、自らにできる限りの形で愛国軍への協力を続けていました。

一通の手紙から始まる悲劇

王党派の将軍ホセ・カラタラーがパラスへ軍勢を差し向ける計画を進めていることを知ったマリアは、コンパドレ(親しい盟友)であるマティアス・マドリーに代筆させた手紙で夫にその情報を伝えました。しかしこの手紙は発見され、捜査はすぐさまマリアへとたどり着きます。1822年3月30日、彼女はカラタラーによって逮捕されました。カラタラーは、反乱者のカイエタノ・キロースやバシリオ・アウキに対しても苛烈な弾圧を行っています。

運動に関わった者たちの名を白状させるため、マリアは激しい尋問にさらされました。それでも彼女はいかなる名前も明かすことを拒み、捕らえた者たちにこう答えたと伝えられています。

「私はあなたたちに情報を提供するためにここにいるのではありません。自由という大義のために犠牲となるためにここにいるのです」

最期の瞬間まで信念を貫いて

1822年5月1日、マリア・パラド・デ・ベジードはパンパ・デル・アルコで銃殺刑に処されました。遺体はラ・メルセー教会に運ばれ、そこに埋葬されたといわれています。こうして、ペルー独立の女性英雄の一人が、最後まで同志を守り抜き、その生涯を閉じたのです。