ポルポト演習:カンボジアの歴史をクイズで確認しよう
1975年から1979年にかけて、ポルポト率いるクメール・ルージュはカンボジアを支配し、少なくとも150万人の命を奪ったとされる恐怖政治を敷きました。本記事では、ポルポト政権の台頭から崩壊までの経緯を、4つの選択問題を通じて振り返ります。歴史の復習や試験対策に、ぜひご活用ください。
問題1
ポルポトは、1970年以来続いていた内戦において首都プノンペンを攻略し、1975年にカンボジアの権力を握りました。この内戦の発端となり、結果的にクメール・ルージュが権力を掌握するきっかけとなった出来事は、次のどれでしょうか。
a) 1970年の総選挙におけるクメール・ルージュの敗北
b) ベトナム戦争に伴うアメリカ軍の侵攻
c) アメリカの支援を受けたロン・ノルによる軍事クーデター
d) ポルポトの処刑を目指したベトナム勢力の連合
e) 国内に居住するベトナム系とカンボジア系住民の間の権力争い
問題2
ポルポトは政権期間中、国内に暮らす少数民族に対して激しい弾圧を行いました。以下のグループのうち、ポルポトの独裁政権による民族弾圧を受けていなかったのはどれでしょうか。
a) チャム族
b) タイ族
c) ベトナム人
d) ウズベク人
e) 中国人(華僑)
問題3
次の施策のうち、ポルポトがカンボジア統治期間中に実施しなかったものはどれでしょうか。
a) カンボジアの大都市からの強制疎開を推進した
b) 革命を実現するため、民衆の階級意識の基盤として教育を奨励した
c) 特にベトナム人に対して激しい民族弾圧を行った
d) 国内のあらゆる宗教を廃止し、特に仏教僧を弾圧した
e) 主導していた文化革命の節目として、カンボジアに「元年」を導入した
問題4
ポルポト政権は1979年1月に打倒され、少なくとも150万人もの命を奪った暴政の時代に幕が下ろされました。ポルポトの失脚に関係しているのは、次のどれでしょうか。
a) ベトナム軍によるカンボジア侵攻
b) ベトナム戦争に伴うアメリカ軍によるカンボジア侵攻
c) 革命的民兵組織の結成など、国民の動員によるポルポト追放
d) アメリカ主導の経済制裁により、ポルポトが辞任を余儀なくされた
e) カンボジア内戦におけるノロドム・シハヌーク軍の敗北
解答と解説
問題1の解答:c
内戦の発端となったのは、ロン・ノルが主導した軍事クーデターです。このクーデターはアメリカの支援を受けており、ノロドム・シハヌークを権力の座から引きずり下ろしました。その結果、シハヌークはクメール・ルージュを支持するようになり、同組織は権力奪取に向けた勢力を拡大していきました。この内戦が1975年に決着し、ポルポトが国家の権力を手にすることとなったのです。
問題2の解答:d
ポルポト政権は、特にベトナム人を標的とした激しい民族弾圧を行いました。数千人のベトナム人が国外へ追放され、約1万人が命を落としたとされています。この民族集団以外にも、約20万人の中国人(華僑)、9万人のチャム族、約1万人のタイ人が犠牲になりました。一方、当時のカンボジアにはウズベク人のコミュニティが存在しなかったため、彼らが弾圧を受けることはありませんでした。
問題3の解答:b
ポルポト政権は、政権期間中にカンボジアで教育を奨励することはありませんでした。むしろその逆で、何らかの教育を受けたことを示す人々に対して激しい弾圧が行われ、大学教授や学生への迫害が記録されています。さらに、外国語の知識を持つ者もまた、迫害の対象となりました。
問題4の解答:a
ベトナム軍によるカンボジア侵攻は1979年に起こり、ポルポト政権の崩壊につながりました。この侵攻により、ポルポトは逃亡し、余生を国の辺境地域に身を隠して過ごすことになりました。なお、ベトナムによる侵攻は、ポルポトが両国の国境地域のベトナム人に対して行った攻撃への報復として実施されたものでした。
補足:ポルポト政権のポイントまとめ
- 1975年、内戦に勝利して首都プノンペンを制圧し、政権を樹立
- 都市住民の農村への強制移住や「元年」の制定など、急進的な政策を推進
- 少数民族や知識層への弾圧により、150万人以上が死亡したとされる
- 1978年末からのベトナム軍の侵攻により、1979年1月に政権が崩壊