ヨハネス・グーテンベルクは、1454年頃に西洋近代の印刷機(活版印刷術)を発明した人物として広く認められています。彼より前に、表意文字である漢字の使用を簡便にするため、中国がいち早く印刷という概念に関心を抱いていました。15世紀、グーテンベルクは「可動式の金属活字」と「手動プレス機」という二つの発明によって、複製の速度を飛躍的に高める手段を完成させます。以後、印刷機はルネサンス期における知識・思想・理念の急速な伝播に大きく貢献することになりました。この発明により、何百万冊もの本が世界へと広まっていきます。しかし、この偉大なドイツ人は1468年に貧困のうちに世を去り、自らの発明から利益を得ることはありませんでした。
グーテンベルク以前の「本」
人類は常に、文字や記録を最良の形で保存する方法を模索してきました。粘土板、パピルス、羊皮紙などがその例です。現在のような冊子の原型となる最初の本が現れたのは紀元後数世紀のことで、ローマ人が蝋を塗った小さな木片をつないだ木簡を用い、やがてそれを羊皮紙の葉に置き換えたのが始まりです。これらの羊皮紙を数回折り、綴じ合わせた形式が、書き物のあり方に革命をもたらしました。
一方、中国では早くから文章を印刷する技術が開発され、広く普及していました。中国では文字の印刷に先立つこと少なくとも1世紀、布地などへの図案や画像の印刷がすでに行われており、105年の紙の発明と仏教の拡大が、印刷術の発展を大きく後押ししたのです。
西洋世界の伝統的な筆記材料であるパピルスとベラム(動物の皮から作られた薄い高級羊皮紙)は、印刷には適していませんでした。パピルスは印刷面として使うには脆すぎ、ベラムはあまりに高価な素材だったからです。それに対して紙は比較的丈夫で安価でした。
早くも10世紀にはアジアで印刷所が設立されています。当初は木版彫刻の技法が用いられ、14世紀からは可動式の金属活字へと移行していきました。
中世ヨーロッパにおいて、知識は写本僧たちの工房を通じてのみ伝えられていました。彼らは高位貴族、教会、修道院向けに数多くの写本を「出版」していたのです。最初の書籍商が現れたのは12世紀で、大学当局の許可を得たうえで修道士たちの作品を販売し始めました。15世紀に入ると書物への需要が著しく高まり、各ページを硬木に彫刻して粗末なプレスで刷る木版本が作られるようになります。
1423年か1437年頃、オランダ人ラウレンス・ヤンスゾーン(ハールレムのコステル)が木片から文字を切り出すことを思いついたとされます。しかしこの木製活字は脆く、空気中の湿度の変化によって容易に変形してしまうことが判明しました。
グーテンベルクによる活版印刷術の発明
近代的な印刷機の出現を待つには、1440年頃まで待たねばなりません。その功績者こそ、ドイツの金細工師ヨハネス・ゲンスフライシュ・ツー・グーテンベルクです。1394年から1399年の間にマインツで生まれた彼は、金細工師の職を学んだ後、1430年にストラスブールへ移り、宝石の加工工房を開き、のちに鏡の製造にも着手しました。1436年頃からグーテンベルクは文章の複製に関心を持ち、新しい印刷技術の開発に乗り出します。
ヨハン・フストやペーター・シェーファーといったパートナーたちとともに、彼は4年間に及ぶ苦労の末、鉛・錫・アンチモンの合金を用いて、再利用可能で交換可能な金属活字の製造に成功しました。彫刻されたポンチ(父型)を埋め込んだ鋳型に溶かした金属を流し込む方式です。さらに彼らは、可動式の台と、印刷する紙を載せる枠を備えたプレス機そのものも考案しました。使用したインキは油性のものでした。この一連の技術はおそらく1450年頃に完成し、グーテンベルクは最初の書物の印刷準備を整えます。
それが有名な『Biblia Sacra Latina』、いわゆる「42行聖書」、通称グーテンベルク聖書です。今日まで48部が現存しています。1455年2月に刊行され、300部が印刷されたこの聖書は1,282ページに及び、その成功は即座に訪れました。
ところが印刷業者グーテンベルク自身は、元パートナーのフストが投資の返済を求めて起こした訴訟に敗れ、破産してしまいます。1465年、ナッサウ大司教アドルフ2世の庇護を受けて、ようやく故郷マインツへ戻ることができました。そして1468年2月3日、歴史上最も重要な発明の一つを後に残して、生まれ故郷でこの世を去ったのです。マインツには1962年以来、彼の工房と印刷機が復元された博物館があります。
ヨーロッパでの急速な普及
1462年、マインツで勃発した内戦により、グーテンベルク門下の印刷職人たちは司教都市を逃れることになります。彼らはヨーロッパ各地へ散らばり、印刷術は瞬く間に広まりました。まず神聖ローマ帝国で隆盛し、続いてイタリアへ。ローマ近郊のスビアコ修道院から始まったイタリアの印刷は、フランスやオランダなど、150以上の都市に印刷所を誕生させます。なお、ハールレムのラウレンス・コステルは、かつて印刷術の真の発明者と見なされていたこともありました。
1455年から1500年にかけて、約4万タイトルのインキュナブラ(揺籃期刊本)が印刷されました。当時の識字率はごくわずかでしたが、識字率が本格的に向上するのは、産業化と教育振興策が進んだ19世紀を待つことになります。
フランスも例外ではありません。1470年、パリのソルボンヌ神学部では、知識人ギヨーム・フィシェの後押しにより、ドイツ出身の名匠ジャン・エンランの手で工房が誕生しました。1473年にはリヨンにも印刷所が開かれ、より庶民的な作品が印刷されるようになります。フランソワ1世がローマン体を採用させたフランスでは、世紀末までに合計30の印刷所が誕生し、ブルターニュのブレアン=ルデアックのような村にまで及びました。ドイツ系の印刷業者ウルリヒ・ゲーリングによるパリ初の出版物は、ラテン語から訳されたこんな熱のこもったコロフォン(奥付)で締めくくられています。「太陽があらゆる場所を照らすように、王国の都にしてミューズの育み手なるパリよ、汝は学問を世界に注ぐ。されば報いとして、ドイツが発明したこのほとんど神的な書写の技を受け取れ」。
印刷術の発明が思想にもたらした革命
一般に、1500年以前に1500万〜2000万部が印刷されたと推定されています。これらがいわゆるインキュナブラです。グーテンベルクの発明は読書のあり方を一変させただけでなく(テキストは以前より余白豊かで読みやすいものになりました)、思考のあり方にも大きな波及効果をもたらしました。聖書や古代の文献へ直接アクセスできるようになったからです。文化は次第に政治権力や宗教権力から自立し、人文主義(ヒューマニズム)の思想がヨーロッパ全土へ広まっていきました。
こうして印刷機は思想の伝播を飛躍的に促進し、とりわけ宗教改革とプロテスタントの台頭に大きく寄与しました。1517年から1520年にかけて、ルターの著作30万部以上がヨーロッパで流通したことはよく知られています。そして印刷機こそ、ルネサンス期に起こった大文化的革命の不可欠な担い手だったのです。ただし教会は、とりわけ宗教書を禁書目録に載せることで検閲を行い、その権限をフランス革命まで保持しました。フランス革命の時代になってようやく、印刷は自由を獲得することになります。
1971年には、パブリックドメインとなった作品の著作権フリーのデジタル版を提供することを目指す「プロジェクト・グーテンベルク」が始動しました。
さらに知るために
ギー・ベシュテル『グーテンベルクと印刷術の発明――ある調査』Fayard、1992年
フレデリック・バルビエ『グーテンベルクのヨーロッパ――書物と西洋近代の発明(13〜16世紀)』Belin、2006年
『発明の驚異の歴史――火の制御から不死へ』Dunod、2018年