絵画における印象派は、1860年代にフランスで登場した芸術運動です。この名称はモネの名作『印象・日の出』(1872年)に由来し、同時に19世紀末に現れた音楽の様式をも指します。印象派の画家たちは戸外で制作を行い、刻々と移ろう光がもたらす効果――水面のきらめきなど――を画面に捉えました。クロード・モネ、ポール・セザンヌ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレー、そしてカミーユ・ピサロらがこの運動の中心人物です。当初は批判と誤解を受け、公式のサロンから排斥された彼らは、1874年にパリで独自の展覧会を開催するに至りました。
新しい芸術的アプローチ
印象派運動は、1860年代のフランスで、戸外制作の先駆者であるカミーユ・コロ(1796〜1875年)の芸術に憧憬を抱く新世代の画家たちによって生まれました。伝統との決別を目指したコロは、自然の写実的で輝かしい表現を追求し、フォンテーヌブロー、オンフルール、プロヴァンス、リヨン地方などに画家集団の結成を促しました。1865年以降は、シャルル・フランソワ・ダビニー(1817〜1878年)がこの流派の中心的な存在となります。彼はアントワーヌ・シャントゥイユ(1814〜1873年)とともに、小舟でオワーズ川を巡りながら制作しました。
もう一人の先駆者ウジェーヌ・ブーダン(1824〜1898年)は、モネの画業に重要な影響を与えました。時間帯や風によって絶えず姿を変える自然の色彩の不定さに魅了されていたブーダンは、若きモネに戸外での制作を勧めたのです。
1857年から1861年にかけて、印象派を代表する画家たちは、それぞれ異なる出自を持ちながら、シャルル・グレール教授のアトリエ(モネ、ルノワール)、スイス・アカデミー(モネ、ピサロ、セザンヌ)、あるいはルーヴル美術館(ドガ、マネ)で出会いました。彼らはギュスターヴ・クールベほど急進的ではないリアリズムを提唱しました。しかし名声を得るには、風景画にほとんど目を向けない審査員たちのいるサロンでの認定が不可欠でした。エドゥアール・マネは1865年、『オランピア』で大きなスキャンダルを巻き起こしています。
印象派の技法と名称の由来
印象派の絵画は制作がきわめて迅速で、一瞬の印象を書き留めることを目的としていました。彼らは正確な輪郭線や明暗法を放棄し、原色と補色の細かな筆致によって、形・立体感・その瞬間の雰囲気を暗示しました。色調は分解されます。たとえば緑色は、青の筆致と黄の筆致を並置することで生み出されるのです。印象派の絵画は、離れて見ればひとつの写実的な全体を形成する、色彩あふれる筆致の炸裂によって特徴づけられます。この潮流の歴史は伝統的に1874年から1886年までの展覧会の時期と結びつけられていますが、実際にはその枠組みを超える広がりを持っていました。
モネは1873年に『印象・日の出』を完成させます。翌年出品されると、論争好きな日刊紙『シャリバリ』誌上で批評家ルイ・ルロワにより否定的に評価されました。批評家が「印象派」という言葉を使ったのはこれが最初で、嘲笑の意図によるものでした。しかしモネは挫けませんでした。1877年には、同年の展覧会と美術雑誌『印象派(L'Impressionniste)』の創刊に際して、自らこの語を二度用いています。こうしてこの名称は、結果的に運動の栄光へとつながることになりました。光を追い求め、筆致を重ねて描く新世代の芸術家たちを指す言葉となったのです。
自然や風景にとどまらず、都市とその近代性、生活の場面もまた印象派の重要な主題となりました。彼らは都会の喧騒と、そこに特有の光の両方を捉えようとしたのです。クロード・モネはサン=ラザール駅を描いた連作を残し、エドガー・ドガは競馬場やオペラ座、カフェの活気ある世界を描き、ピエール=オーギュスト・ルノワールは『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を描きました。
クロード・モネとピエール=オーギュスト・ルノワール
初期のモネは革新よりも模倣が先行していました。先人たちの憂鬱な表現を、新鮮みなく踏襲していたのです。1863年頃からは、ルノワールを含む仲間たちとともにフォンテーヌブローの森で戸外制作に励みました。1866年頃からは独自性が際立ち始め、『ル・アーヴル近郊の海辺のテラス』(1866年)、『庭の女たち』(1867年)といった傑作を次々と生み出していきます。
風景はもはや画家の内面の反映ではありません。純粋に造形的な営みのための口実となるのです。モネは自然の輝きだけを描き、色彩こそを作品の真の主題としました。捉えがたい風景が与える印象を再現し、風や光までもが手に取れるように感じられるほどの表現効果を極めました。アカデミズムの主題や形式に対する、西洋絵画史上類を見ない自由を示したのです。彼の芸術は1890年代以降、ジヴェルニーの庭園から着想を得た連作『睡蓮』において頂点に達します。
一方のルノワールは、風景の再現にも優れていましたが、むしろ人物描写を好みました。早くから成功を志してサロンに作品を出品します。幾度か落選を重ねたのち、1868年に『日傘をさすリーゼ』で入選を果たしました。光と影の戯れへの嗜好は、印象派時代の他の作品にも色濃く見られます。1874年には第1回印象派展に参加。その後、『背の高い草の間の上り道』(1875年)、『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1876年)、『シャルパンティエ夫人とその子供たち』(1878年)、『舟遊びの昼食』(1881年)などを制作しましたが、やがて運動から距離を置くようになりました。
ポスト印象派と音楽への影響
ポスト印象派(後期印象派)とは、印象派を受け継ぐ、あるいは決別する複数の絵画様式を指します。フィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックも、新たな絵画の道を切り開く前は、自身を初期の印象派と位置づけていました。新印象派にはジョルジュ・スーラ(『グランド・ジャット島の日曜日の午後』)、カミーユ・ピサロ、ポール・シニャックが名を連ねます。彼らが用いたのは点描法という独特の技法で、純色の微小な点をキャンバスに積み重ねていくものです。適度な距離から見ると、これらの点が集まって形や明暗の領域を成します。
音楽の分野では、印象主義は特にフランスにおいて、19世紀末から20世紀初頭にかけて花開きました。それは印象派絵画と、ポール・ヴェルレーヌ、シャルル・ボードレール、ステファヌ・マラルメの詩の影響によるものです。ソナタや交響曲といった形式を重視する古典派(モーツァルト、ベートーヴェン)の様式とも、豊饒な感性を爆発させるロマン派音楽とも対照をなしていました。
作曲家クロード・ドビュッシーは、音響の繊細さと極めて多彩な和声の色彩感覚によって、音楽における印象主義の最大の代表者となりました。代表作には『牧神の午後への前奏曲』や『ペレアスとメリザンド』があります。
印象派が遺したもの
印象派の画家たちは、それぞれ独自の個性を発揮しました。モネを除けば、彼らの芸術は新たな美学の探求へと進化していきます。ルノワールは筆致による描き方を捨て、より精緻な輪郭を描くようになり、セザンヌは光によって構築される堅固な形体の表現へと向かいました。しかし、印象派的なアプローチはあらゆるアカデミズムを揺るがすことになったのです。
さらに、リアリストを自称したこれらの画家たちは、現実を分解し、自然の中にある捉えがたいものを捉えようとして、それを一瞬の輝きへと昇華させました。彼らはジョルジュ・スーラ(1859〜1891年)に代表される点描主義・新印象派の潮流を先取りしていたのです。印象派芸術は具象的なままにとどまりましたが、内容よりも色彩を優先したため、20世紀の抽象絵画を予告する存在でもありました。ファン・ゴッホやトゥールーズ=ロートレックもまた、新たな絵画の道を開く以前は、自身を印象派の系譜に属するものと考えていました。
さらに学ぶために
『印象派の真実の歴史』(グザヴィエ・モデュイ、セドリック・ルマニョン著、アルマン・コラン社、2017年)
『印象派小事典』(ガブリエーレ・クレパルディ著、ソラール社、2018年)