ブーヴィーヌの戦いは、1214年7月27日、北フランスにおいて、フランス王フィリップ2世(オーギュスト)の軍隊と、神聖ローマ皇帝オットー4世を中心とする独・フランドル連合軍が衝突した戦いである。連合軍の予想外の敗走により、カペー朝は輝かしい勝利を収め、王領を拡大し、ヨーロッパのライバル諸国に対する王権を強化することとなった。ヘイスティングスの戦いと同様、君主が自ら「神を試す」、すなわち戦場で血に染まり、命を落とす危険を冒した最初期の戦いの一つでもある。さらに、この勝利を契機に「国民感情」とも呼ぶべき意識が育まれたとされる点で、フランス史の転換点となった戦いでもある。
ブーヴィーヌの戦いの背景
十字軍から帰還して以来、フィリップ2世はプランタジネット朝(リチャード獅子心王、続いて欠地王ジョン)との戦いを止めることなく勝利を重ね、1204年にはノルマンディー征服を成し遂げた。イングランドとの戦いの後、フランス王は神聖ローマ帝国を分裂させていた内紛に目を向け、即位以来の慣例どおり、自国の利益に従って支持する派閥を選んでいった。
ドイツ諸侯の争いに加えて、イングランド王ジョンが教皇インノケンティウス3世と対立し、1206年にはイングランドに聖務禁止令が、1209年にはヘンリー2世の息子に対する破門が宣告されるに至り、状況はフランスにとって絶好のものとなった。フィリップ2世はこの好機を利用すべく、息子ルイにイングランドへの上陸作戦を任せた。しかしこれは失敗に終わり、1213年、欠地王ジョンは教皇と和解してフランスへの包囲網を築き、ブローニュ伯、フランドル伯となったポルトガルのフェラン、そして何よりオットー4世の支持を取り付けることに成功した。オットー4世のライバルであるホーエンシュタウフェン家のフリードリヒこそ、カペー朝が支持していた人物である。
1213年、フィリップ2世はフランドルへの攻勢に打って出た。息子ルイ(後のルイ8世)は、イングランド軍がラ・ロシェルに上陸して新たな戦線を開くと、これを撃退した(ラ・ロシュ・オ・ムワーヌの戦い、1214年7月2日)。しかし北部では、連合軍が合流し、オットー4世がフランドルに侵攻したため、フランス王にとって情勢はより緊迫したものとなっていた。
両軍の戦力
この対決は、さまざまな意味で決定的なものであった。最大の見どころの一つは、二人の大君主が同時に戦場に臨んだことであり、これは当時としても極めて稀なことであった。戦いに臨むことは、正統性を賭けるリスクを意味したからである。正統性は勝利によって、すなわち神の意志によって明らかにされるものだったのだ。
フィリップ2世は軽々しく戦いに臨んだわけではない。ブルゴーニュ公ウード、ギヨーム・デ・バール、ゴーティエ・ド・ヌムール、サンセール伯といった有力な騎士や家臣たちに囲まれ、さらに病院騎士団のゲラン修道士の補佐も受けていた。王軍は約7,000人の戦闘員で構成され、うち1,300人が騎士、同数の騎馬軍士(セルジャン)が含まれていた。歩兵は都市民兵隊で構成されていたが、その評判は必ずしも芳しいものではなかった。全軍は、サン・ドニの軍旗(オリフラム)を中心に、三位一体を象徴する三個部隊に編成された。戦場は綿密に区画され、ブーヴィーヌの橋は封鎖され、必要に応じてフランス軍が湿地帯を通って撤退できるよう配慮されていた。
これに対して連合軍は、1,500人の騎士と同数の騎馬軍士、さらにフランドル民兵とイングランド傭兵からなるやや規模の大きい歩兵部隊を並べた。オットー4世のほか、フランドル伯フェラン、ブラバント公、ソールズベリー伯、ユーグ・ド・ボーヴ、ブローニュ伯ルノー・ド・ダマルタンが参陣していた。
ブーヴィーヌの戦いの経過(1214年7月27日)
戦いに火をつけたのは、ゲラン修道士率いるフランス軍右翼であった。ブルゴーニュ人とシャンパーニュ人からなるこの部隊は、フランドル騎士団とその伯と対峙し、数度の突撃の末に敵の戦列を突破することに成功した。フェランは捕虜となったのである。中央はより拮抗していた。両君主、フィリップ2世とブラウンシュヴァイクのオットー4世を中心とする最精鋭部隊が激突したのである。歩兵は騎兵の突撃に耐えられず、ほどなく混戦となった。フランス王は窮地に陥ったが、駆けつけた騎士たちによって辛うじて救われ、皇帝は逃走を余儀なくされた。
左翼では、ロベール・ド・ドルーとルノー・ド・ダマルタンという、互いに顔見知りの敵同士が対峙した。後者が最も長く抵抗し、降伏したのはゲラン修道士の援軍が到着してからであった。王軍はその後追撃戦に移ったが、連合軍の指揮官の大半、ブラバント公やオットー4世自身を含め、すでに逃げ去っていた。フィリップ2世はついに戦闘終了を命じ、疑いようのない勝利を収めた。この勝利こそが、彼に「オーギュスト(尊厳王)」の称号をもたらしたのである。
ブーヴィーヌの戦いの影響と後世への評価
その影響は、まずヨーロッパの力関係に顕著に現れた。戦場にいなかった欠地王ジョンは完全に孤立し、イングランド王政の危機は深刻化した。オットー4世は、後のフリードリヒ2世となるホーエンシュタウフェン家との争いにおいて決定的に弱体化した。大諸侯(例えばフランドル)はカペー朝王政に屈することを余儀なくされた。フランス王権は当時の最大の強国としての地位を確立し、それまでの領土征服を確固たるものにしたのである。
しかし、その影響はフランス王国の内政においてさらに大きかった。フィリップ2世は、この勝利から得られる利益を素早く見抜いた。盛大な祝祭が開かれ、その間、捕虜たちが引き回された。ギヨーム・ル・ブルトンの『フィリピッド』に見られるような本格的なプロパガンダが登場した。1214年から1224年にかけて紡がれた一万行の韻文詩は、フィリップ2世とカペー朝の栄光を称えるものであった。王朝はこの勝利(と王自身)を巡って「国民感情」の萌芽を築こうとした。この言葉は時代錯誤ではあるが、この戦いの決定的な重要性を物語っている。
とはいえ、王とその宣伝者たちの努力にもかかわらず、フィリップ2世の存命中におけるブーヴィーヌの影響は、いくぶん相対化される必要がある。その影響はロワール川以北にとどまり、帝国ではほとんど知られていなかったようである。したがって、この時代に真の「国民的共鳴」が存在したわけではない。
ブーヴィーヌの後世への影響が本格的に現れるのは、後年、特に19世紀のことである。歴史家たちは国民的な歴史物語を創り上げる必要から、この戦いをフランス国民の誕生の日の一つに仕立て上げた。エルネスト・ラヴィッスはこう記している。「ブーヴィーヌは我が国に、揺りかごの安全とともに、世界における美しい姿を与えた。……この栄光は、途切れることなく我々へと続く歴史を持つ、真のフランスを戴冠させた。だからこそ、ブーヴィーヌの記憶は国民的なものとして残されねばならないのである」
参考文献
ジョルジュ・デュビー『ブーヴィーヌの日曜日――1214年7月27日』(2005年)
ドミニク・バルテレミ『ブーヴィーヌの戦い』(2018年)
ジョルジュ・ボルドノーヴ『フィリップ2世オーギュスト――征服王』(2009年)
