歴史物語

「生理があったのですが、ひどかったです。」第二次世界大戦下、ポーランドの女性たちはいかに衛生を保ったか

戦争の汚れと尊厳の戦い

シラミ、汗、洗わない身体の臭い……。多くのポーランド女性にとって、戦争の汚れは屈辱そのものだった。そして自らの尊厳を守り、せめて見た目だけでも衛生を保とうとする戦いは、極めてドラマチックな様相を呈した。

第二次世界大戦の生存者たちの記憶が、軍事行動や死、障害、強制移住、愛する人との別離といった厳然たる事実に触れないとき、多くは食糧と住居の話に集中する。どこで寝たか、何を着ていたか、いかに寒さを凌いだか、何を食べ、いかに食糧を調達したか──。

しかし、ある特定の話題になると、答えはしばしば曖昧になり、「それは大変だった」の一言で片付けられる。

アンナ・ヘルビヒ著『蜂起の少女たち』の中で、看護婦「スワフカ」は考える。「男性たちと私たちの状況はどう違ったのか? もちろん、私たちの最大の苦痛はパーソナル・ハイジーン(身だしなみ・衛生)だった。正確には、それが欠如していたことだ」と。

シラミだらけの長髪

「いつものように、少女たちは地下壕へ行く前に、キャンプ内にいた数人のプロの理容師を探し出し、髪をきれいに整えてもらった。そして彼女たちは……行った」――カロリナ・ランコロンスカは、ラーフェンスブリュック強制収容所で処刑を待つポーランド女性たちの様子をこう記している。

「生理があったのですが、ひどかったです。」第二次世界大戦下、ポーランドの女性たちはいかに衛生を保ったか
ラーフェンスブリュック収容所の囚人たち。処刑前に仲間の女性たちが髪を梳かし、結い上げてあげた(出典:Bundesarchiv, CC BY-SA 3.0 de)

多くの女性にとって、整った身なりは、戦争という困難な時代において士気を支える「日常」の最後の欠片だった。長髪の女性も少なくなかったが、その手入れは並大抵のことではなかった。ワルシャワ蜂起時の看護婦テレサ・ポラク(旧姓シリヴィンスカ)は回想する。「私の三つ編みは汚れでカチカチに固まっていた。埃のせいだ。でも、母が初めて私の体を拭いてくれたとき(タオルなんてなかったから雑巾で)、髪の毛が肌に張り付くほどシラミだらけだったの」。

シラミはどこにでもいた。クリスティナ・ズウォリンスカ=マリツカは言う。「私たち全員にシラミがいたわ。空襲が終わって夜になると、みんなで髪を梳かしたの。すると『洋梨』みたいなのがボロボロ落ちてきたのよ」。

それでも女性たちは、あらゆる状況下でせめて衛生の見せかけだけでも保とうと必死だった。クリスティナ・クレリキェヴィチ=ハラシモヴィチは、ドゥルハングスラーゲル(通過収容所)での体験をこう語る。「粉石鹸で頭を2、3回洗ったわ。でもその後、髪がごっそり抜けたの。あれはあんまり食器用洗剤に近すぎた、頭を洗うものじゃなかった」。

「女の子の悩み」――月経との戦い

包帯、ガーゼ、清潔な布、脱脂綿は貴重品で、多大な犠牲を払って入手し、負傷者や病人のために優先された。では、女性たちは「困った日々(月経)」をどう乗り切ったのか。

多くの女性にとって、この問題は自然解決した――極度のストレスと栄養失調で月経が止まったのだ。グレイ・ランクス(ポーランド少女スカウト組織)の看護婦兼連絡将校、ダヌタ・ステファノヴィチは証言する。「収容所では女性たちは衛生用品を必要とするけど、理由はともかく、ほとんどの人が必要としなかった。そう、全部止まっちゃったの。不思議でしょう? でも事実よ」。

しかし、月経が続く女性たちにとっては深刻な問題だった。「ひどかったわ。まともに体を洗いたかったし、とにかく『女の子の悩み』をどうにかしたかった。お風呂場と水を探さなきゃならなかった。簡単じゃなかったわ。〈中略〉食べ物のことより、そればかり考えてた」――ゲノファ・フラックの言葉だ。

「生理があったのですが、ひどかったです。」第二次世界大戦下、ポーランドの女性たちはいかに衛生を保ったか
ストレスと栄養失調で月経が止まる女性も多かった。写真は国内軍女性軍事勤務の衛生パトロール(パブリックドメイン)

自由の身の女性たちにはまだ多少の余地があった。問題は収容所や刑務所に囚われた女性たちだ。ハンナ・クムニエツカ=ヘウミンスカは回想する。

「荷物を包んでいた紙は衛生目的のために大切に取っておかれた。わかるでしょう、女性なら。おばあちゃんたちはもう月経がないけど、私たち若い女にはあった。地獄よ。氷のような冷水で、1日2回も体を洗わなきゃならなかったんだから」。

「洗う」ことの意味が変わった

占領下ポーランドにおける女性のパーソナル・ハイジーンは、場所やそれまでの習慣、社会的地位によって当然異なっていた。戦前でさえ、毎日の入浴が全ポーランド人の日課ではなかったことは忘れてはならない。

しかし戦争が始まると、特に都市部では状況が劇的に悪化した。連絡将校ゾフィア・ワゾールはワルシャワ蜂起時をこう振り返る。「衛生の問題は、やむを得ず後回しになったわ。〈中略〉私たちは洗わなかった。クラシンスキ公園の噴水がまだ使えていた間は、そこで少し体を洗った。夕方は女の子、朝は男の子。旧市街に入ってからは、お風呂に入れたのは1回だけ」。

「生理があったのですが、ひどかったです。」第二次世界大戦下、ポーランドの女性たちはいかに衛生を保ったか
ワルシャワ蜂起時、市民は公園の噴水で体を洗った。写真はサスキ公園(撮影:マルチン・ビャウェク、ライセンス:GFDL)

水は命より重い

ワルシャワでの衛生問題は蜂起よりずっと前から始まっていた。ゾフィア・ナウコフスカは1940年の冬、日記にこう記している。「夜でないと体を洗えない。ガス圧が低すぎて、水道から冷水しか出ない」。2年後、また冬、彼女は断じた。

「いかなる衛生への望みも幻想だ。もう入浴できない、夜でさえ。ガスはかすかに灯るだけ、お湯の蛇口から冷水が出る。〈中略〉皮膚の一片一片を拭うことは、自分への勝利であり、英雄的行為だ。常に震えながら生きている」。

ワルシャワ蜂起中、水へのアクセス自体が贅沢品になった。「イヴォ=オストヤ」大隊の看護婦ツェツィリア・グルスカは証言する。

「最後の2週間は水が全くなくなったの。1人1日半リットルの水で、飲み、洗い、食事の準備までしなきゃならなかった。2、3日に1回しか洗えなかったわ。使った水は捨てずに取っておいて、順番に使ったの」。

貴重な水を共有した記憶は一般市民にもある。ウルリカ・コルチンスカは語る。

「私、母、父の妹、母の姉……4人の女性がいたの。〈中略〉まず顔を洗い、次に下半身を拭き、その水で床を拭き、最後にトイレに流した。庭の地面でやると、足がノミで真っ黒になったわ」。

蜂起前、ポーランド当局は備蓄を呼びかけたため、しばらくは満杯の浴槽やタンクが住民の命綱だった。その後は地下室の溜め水や、庭のポンプ・井戸水に頼った。

「生理があったのですが、ひどかったです。」第二次世界大戦下、ポーランドの女性たちはいかに衛生を保ったか
ゾフィア・ナウコフスカのような知識階級の女性も、衛生習慣を変えざるを得なかった(パブリックドメイン)

だが水を汲むことは、死の危険と隣り合わせだった。バケツを持って並ぶワルシャワ市民の列は、ナチス格好の的だった。

「スジナ通り、昔『レインボー』映画館があったところに井戸があったの。昼夜問わず行列ができてた。ドイツ人がすぐ気づいて、撃ち始めたのよ。うちの庭の人たち、たくさん死んだわ」――蜂起参加者イヴォナ・ベルナツカの証言だ。

石鹸の代わりは「砂」

占領下ワルシャワの現実を皮肉った「布告」が、1943年秋、首都の壁に貼り出された。総督名の偽文書で、ブラックユーモアに満ちていた。その一部にはこうあった。

「ポーランド人はヨーロッパ風の服装を禁ず。残りの衣類は軍需生産に回す。ポーランド人は中央アフリカの黒人風に着飾れ。……ポーランド人に石鹸で洗うことを禁ず。代わりに1人月50グラムの砂を配給する」。

「生理があったのですが、ひどかったです。」第二次世界大戦下、ポーランドの女性たちはいかに衛生を保ったか
1943年秋、首都の壁に貼られた『ポーランド人の法的地位に関する規則』。地下国家による風刺ビラ(パブリックドメイン)

これは占領者の法令を嘲笑う地下国家の風刺ビラだったが、ワンダ・ピオトロフスカの記憶とは不気味に符合する。

「石鹸ね……何でできてたか知らないけど、全然泡立たなかったわ。手を洗うのがやっと。〈中略〉洗濯粉に砂を2杯混ぜたみたいなのよ」。

それでもこれは貴重品だった。ナウコフスカは戦争初期にこう書いている。「石鹸一切れ、包帯、脱脂綿、紙、インク――これらは渇望の対象であり、夢であり、宝物そのものだ」と。

ワインで髪を洗い、コーヒーで体を拭く

多くの女性にとって、清潔への渇望は空腹や渇きよりも強かった。オーバーランゲン収容所にいたハンナ・マリア・マレヴィチは回想する。「最低限の食料、水っぽい液体しか与えられなかった。(失礼だが)少し飲んで、残りは衛生のために使った、少しでも体を拭くために」。

クリスティナ・ブコフスカは言う。「コーヒーで体を拭いたこともあるわ、お湯がなかったから。……『正気?』って言われたけど、『飲むより洗う方を取る』って答えたの」。

「生理があったのですが、ひどかったです。」第二次世界大戦下、ポーランドの女性たちはいかに衛生を保ったか
記事の着想元となったアルトゥル・バニェヴィチの小説『スワスティカとの五日間』(Znak Horyzont刊)

こうした選択は収容所だけでなく、蜂起下のワルシャワでもあった。旧市街にいた看護婦ゾフィア・ベルンハルトは語る。「水を得るのは至難の業だった。飲料水優先だったから。〈中略〉友達が赤ワインで私の髪を洗ってくれたの。……ワイン樽の匂いがしたわ」。

もっと強いアルコールも使われた。看護婦「マリシャ」ことスタニスワヴァ・オルリコフスカは証言する。「旧市街の有名な戦士、『ズダン』大尉[タデウシュ・マイヘルチク]が従卒をよこした。大きな瓶を持ってきたの、スピリタス(高濃度アルコール)よ。『マリシャ、これで体を拭きなさい。拭き取っちゃダメよ』って」。

「生理があったのですが、ひどかったです。」第二次世界大戦下、ポーランドの女性たちはいかに衛生を保ったか
ワルシャワ蜂起の女性たち。戦い、連絡係、看護婦、炊き出し……あらゆる役割を担いながら、できるだけ身だしなみを整えようとした(パブリックドメイン)

ラベンダー香る地下室

「蜂起の恐怖について、飢えについて語るとき、伝えられないものがある。それは臭いだ。8月末から9月にかけて、蜂起には恐ろしい臭いがあった」――「ハンクの妹」ことアンナ・ジェンツァコフスカは言う。路上の死体、消毒できない病院の傷、機能不全の下水道、そして洗われない身体の悪臭。

それに抗おうとした女性もいた。地下室で避難民の世話をした看護婦「ヤネチカ」ことヤニナ・キンは回想する。

「私が住んでた家に、いわゆる石鹸工場があったの。……ラベンダー水を地下室の壁にかけて、いい匂いをさせたの。アルコール入りだから消臭になると思ったの。地下室にいた人たちはみんなラベンダーの香りが染みついてて、匂いで『あ、この人あの地下室の人だ』ってわかったくらいよ」。

参考文献・情報源

  • 口述歴史アーカイブ、ワルシャワ蜂起参加者へのインタビュー(アクセス:2016年6月19日)
  • Anna Herbich, Dziewczyny z Powstania (『蜂起の少女たち』), Znak Horyzont, Kraków 2014
  • Zofia Nałkowska, Dzienniki czasów wojny (『戦時日記』), Czytelnik, Warszawa 1970
  • Karolina Lanckorońska, Wspomnienia wojenne (『戦争の記憶』), Znak, Kraków 2002
  • Tomasz Szarota, Okupowana Warszawa (『占領下のワルシャワ』), Czytelnik 2010

※本記事は、アルトゥル・バニェヴィチの最新ミステリ小説『スワスティカとの五日間』(Znak Horyzont刊)の刊行にインスパイアされて執筆されました。