歴史物語

1939年、人口約70万人のポーランド大都市ウッチには、なんと水道がなかった!

「いつになったら水が出るんだ!?」――消えた日常の挨拶

ワツワフ・ヴォイェヴドゥスキ(Wacław Wojewódzki)のもとに、友人たちの温かい挨拶はもう届きませんでした。誰も「おはようございます」「お疲れさまです」と声をかけず、代わりに必ずこう切り出したといいます。「で、いつになったら水道は通るんだ!?」

これには無理もありません。彼はウッチ上下水道会社の所長として長年在籍しながら、一本たりとも配水管を実用化できていなかったのです。

この皮肉な逸話を語ったのは、ほかならぬ本人でした。1938年11月2日、ヴォイェヴドゥスキはラジオ講話を行い、ウッチ市民に向けて「なぜ今も中世さながらの生活を強いられているのか」を釈明します。

「人口約70万人を擁する都市の住民が、『ウッチにいつ健全な上水道が引かれるのか』と問うのは、当然の権利です」と彼は弁解がましく認めました。しかし、そこに良い知らせは一切ありませんでした。

始まってみれば1909年――それでも25年間、何ひとつ実現せず

この短い講話(後に「ウッチ市議会誌」に掲載)によれば、ウッチの水道計画はすでに1909年に始まっていました。当時、市への給水方法として複数の案が検討されていました。約50キロ離れたピリツァ川から水を汲み上げる案、あるいは深井戸を掘削する案です。ところが四半世紀が経過しても、どの案一つ実現しなかったのです。

1939年、人口約70万人のポーランド大都市ウッチには、なんと水道がなかった!
政府委員として、そして幻のウッチ水道の責任者となったワツワフ・ヴォイェヴドゥスキ。

1934年、ようやく重い腰を上げた市当局

市当局が議論から行動へ移ったのは、ついに1934年のことでした。選ばれたのは最小限のプランです。5本の井戸を掘り、当初から一部地域限定の給水であることを前提としました。決め手は費用でした。全市への給水には戦前ズロチー5,000万が必要だったのに対し、市が拠出する意思を示したのはその半額にとどまったからです。

しかし工事は難航します。1938年になってようやく2本目の井戸が完成しただけで、数十万のウッチ市民は相変わらず貯水槽や公衆浴場に頼らざるを得ませんでした。ヴォイェヴドゥスキは、せめて計画中の井戸の水については「健康的で適度な軟水だが、許容量を超える鉄分を含む」と保証するのが精一杯でした。

新たな設備の建設が急務となる一方、次の井戸の工事も遅々として進みません。県知事は「工事は前進しているように見えるが、ウッチは先駆的な大事業に取り組んでいるのだから、日程を厳しく問うべきではない」と釈明しました。

水道が通るころ、街の名は「リッツマンシュタット」に

大幅に縮小された形での水道網の供用開始は、早くても1940年後半の予定でした。しかし、その頃にはウッチの大地に、すでにナチス・ドイツが名付けた「アーリア人的都市」リッツマンシュタット(Litzmannstadt)が横たわっていたのです。第二次世界大戦の開戦により、街は占領され、その名前すら奪われてしまいました。

出典

  • W. Wojewódzki, When will there be water in Łódź?(ウッチに水道はいつ通るのか?), 「Journal of the City Council in Łódź(ウッチ市議会誌)」No. 11(1938年)、1099〜1102ページ。