米国の大富豪令嬢からベルギー王妃、そして舞台のスターへ
彼女は途方もない資産家の娘として生まれ、童話のような生活を送ることができた。しかし彼女は退屈な貴族社会を嫌い、スキャンダルとアドレナリンを求めて生きた。20世紀初頭、ヨーロッパ中に出回った彼女の大胆な写真葉書は、彼女がいかに常識外れで自由な魂の持ち主だったかを今に伝えている。
17歳で公爵夫人に――しかし夫は借金まみれの初老の貴族
1873年、デトロイトで海運と材木業で巨万の富を築いた父の娘として生まれたクララ・ウォード。美貌と自覚、そして莫大な遺産を持つ彼女には数多くの求婚者が殺到した。ベルギー外相の息子ジョゼフ・ド・カラマン=シミー公爵がプロポーズすると、彼女は17歳で、年の離れた決して美男とは言えない、借金まみれの貴族と結婚した。
「手袋を替えるように愛人を変える」自由奔放な公爵夫人生活
若き公爵夫人は、自分の資産と夫の家柄を背景に、ベルギー宮廷、リヴィエラ、パリを渡り歩く優雅な生活を謳歌した。二人の子供にも恵まれたが、彼女は静かな家庭生活など望んでいなかった。夫の黙認のもと、次々と愛人を変え、実態の貴族たちからは疎まれ者扱いを受ける存在になっていく。
ベルギー国王レオポルド2世の執拗な関心、そしてパリへ
彼女を苦しめたのは、ベルギー国王レオポルド2世の露骨な関心だった。国王の執着のせいで宮廷では冷ややかな視線を浴びせられ、ベルギーに居場所を失った彼女は夫とともにパリへ移る。そこで彼女は「大西洋の向こう側で最もワイルドなアメリカ人女性」として悪名高き存在となっていった。
ジプシーのヴァイオリニストとの駆け落ち――世紀のスキャンダル
1896年11月、パリの高級ナイトクラブで退屈していたクララの耳に、深いヴァイオリンの音色が飛び込んできた。演奏していたのは、黒髪と口髭、光る黒い瞳を持つ小柄な男、リゴ・ヤンチ。二人は一目で惹かれ合い、わずか10日後に駆け落ちした。このスキャンダルで彼女は上流社会から完全に追放されるが、彼女の伝説はここから始まる。
離婚裁判で「手に負えない烈馬」と罵られても、彼女は自由を選んだ
駆け落ちから二ヶ月後、ジョゼフ公爵は離婚を申請。有名になった裁判で、公爵側の弁護士でさえ彼女を「手に負えない烈馬」「野蛮で風変わりな性質」と罵った。公爵が勝訴し、子供の親権と慰謝料まで得たが、クララ本人はこう語ったという。「もう終わり。自由になりたかったの。今、少なくともこの社交界から抜け出せた。彼も私を望まない、私も彼を望まない――おあいこね」
ムーラン・ルージュの舞台で「ほぼ裸」のポーズ・プラストゥークを披露
リゴとともにハンガリーの故郷を訪れ、パリに戻ったクララは、男性用のように裾を下げたズボン姿で自転車を乗り回し、公衆の面前でタバコをふかすなど、パリ市民を震撼させた。そして彼女は芸術家のライフスタイルに魅了され、自らの芸で生計を立てることを決意する。
「ポーズ・プラストゥーク」――肌色タイツ一枚で魅せる活人画
1897年4月から、彼女はムーラン・ルージュとフォリー・ベルジェールの舞台で「ポーズ・プラストゥーク(活人画)」を披露し始めた。肌色の極めてタイトな衣装をまとい、リゴがヴァイオリンを弾きながら彼女の周りを踊るという演目だ。初演は、公爵の友人たちが生きたウサギや腐った卵を投げつける騒ぎになると警察に嗅ぎつけられ、中止に追い込まれたほどだった。
ヨーロッパ中を熱狂させた「ほぼ裸の公爵夫人」、月収は現在の約650万円
パリは憤慨したが、ヨーロッパの他都市では「ほぼ裸の公爵夫人」を見ようと観客が殺到した。彼女の肌色タイツ姿を印刷した葉書が飛ぶように売れ、ツアーは大成功を収めた。特にベルリンでの人気は絶大で、彼女は月収6,800ドル(現在の価値で約650万円)を稼ぎ出した。
元夫の要請で葉書が押収、ヴィルヘルム2世も「気を取られる」と販売禁止?
人気の裏にはトラブルもあった。1897年8月、元夫の要請で警察が葉書販売店を家宅捜索し、「あらゆる衣装姿」の写真が押収された。噂では、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世までもが「彼女の魅力に気を取られる」として猥褻な葉書の販売を禁止したという。真偽は定かでないが、裸体に近い公爵夫人の葉書を配布すれば逮捕される時代だったことは事実だ。
愛と浪費、そして没落――4度の結婚と43歳での死
1898年、リゴが離婚成立後に彼女と正式に結婚。二人は互いに深い愛情を注ぎ合い、大金持ちのクララはヴァイオリン、宝石、さらには子象やライオン、トラの赤ちゃんまで贈り物として贈った。しかし、桁違いの浪費は実家の逆鱗に触れ、家族から勘当同然の扱いを受け、収入の4分の1は元夫への慰謝料として差し押さえられた。それでも彼女は借金を重ね続けた。
「奔放な」群衆からも見捨てられ、4度目の結婚へ
実家の資産断絶だけでなく、「奔放な」芸術家たちの群れからも拒絶され、1902年のフォリー・ベルジェール公演は妨害された。リゴとの関係も破綻し、彼女は鉄道作業員と駆け落ちして3度目の結婚をするが、彼はすぐに去っていった。その後も独りでいられず、間もなく4度目の結婚をする。
激しく生き、早く散った「欲望の奴隷」
1916年12月9日、肺炎のため43歳で生涯を閉じた。浪費で手元の金はなくなっていたが、父から受け継いだ遺産は子供たち、親族、友人、最初の3人の夫にまで行き渡るほど十分だった。
彼女の訃報を伝えたデトロイト・ニュース紙はこう綴っている。
「彼女は欲望の奴隷だった。43歳の老婆として、アウトサイダーとして死んだ。本来なら人生最高の年を生きるはずだったのに」
常識と戦い、自分の欲望の赴くままに生きたクララ・ウォード。その波乱に満ちた生涯は、写真葉書という新しいメディアを通じて、20世紀初頭のヨーロッパ中に「自由」という名のスキャンダルを振りまいたのだった。
※本記事は、リンダ・ロドリゲス・マクロビー著『わるいプリンセスたち』(Horizon Mark、2016年)の情報に基づいて構成されています。