歴史物語

ヨーロッパで最も有名な愛人――ポンパドゥール夫人、その華麗なる生涯

彼女を「フランス政治を破滅に導き、国王を骨抜きにした」と非難する者もいれば、「優れた審美眼と美しい声、眩いほどの美貌の持ち主」と称賛する者もいる。だが確かなことがひとつある。彼女は20年にわたり、髪型から外交に至るまで、あらゆる分野で流行を生み出し続けたのだ。ポンパドゥール夫人は、いかにしてその地位を手にしたのか。

「あなたは王の愛人になるでしょう」――占い師ルボン夫人は、幼いジャンヌ・アントワネット・ポワソンにそう告げたという。1721年生まれの少女、後のポンパドゥール夫人は当時9歳。玉座から最も縁遠い存在と言えた。ブルジョワの家庭に生まれ、父は横領罪で国外追放、母は皮革商を営んでいた。それでもジャンヌ・アントワネットは、あの予言を胸に刻み続けたのである。

ヨーロッパで最も有名な愛人――ポンパドゥール夫人、その華麗なる生涯

狩猟女神ディアナに扮したポンパドゥール夫人。

当時の彼女の人生は、宮廷での栄達を予感させるものでは決してなかった。ごく平凡な日々が続いていたが、幸運には恵まれていた。母ルイーズ=マドレーヌ・ド・ラ・モットの才覚と、後見人である金融業者シャルル・ル・ノルマン・ドゥ・トゥルヌエムの支援のおかげで、丁寧な教育を受けることができたのだ。

1741年には、後見人の計らいで恵まれた結婚にも巡り会う。相手は後見人の甥、シャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオル。二人の間にはほどなく2人の子どもが生まれ、若い夫婦はパリの邸宅とセナールの森のほとりの館を行き来しながら暮らした。王ルイ15世が未来の寵姫を初めて目にしたのは、この森の近くだったのだろうか。

「誰もが彼女を愛人にしたいと願っていた」

「乙女は23歳、輝くような肌と美しい灰緑色の瞳を持つ。まさに『王家のご馳走』であり、運命を自らの手でつかむ機会を待つばかりである」――ニコラ・ミエトンの著書『フランス外交の艶史』は、デティオル夫人についてこう描写している。王の関心を引いたのも無理はない。先の寵姫シャトールー夫人が1744年12月にこの世を去り、ルイ15世は新たな恋を渇望していたのだ。

ヨーロッパで最も有名な愛人――ポンパドゥール夫人、その華麗なる生涯

国王を骨抜きにした悪辣な策士か、それとも知性と優雅さの象徴か。真のポンパドゥール夫人とはどんな人物だったのか。

ルイ15世とジャンヌ・アントワネットが正確にいつ出会ったのかは定かではない。しかし王はたちまち、「他のどの女性にも似ていない、炎のような瞳と冴える機知」に魅了された。デュフォール・デュ・シュヴェルニー伯はそう記している。「誰もが彼女を愛人にしたいと願っていた」と、心奪われた貴族は付け加えている。ミエトンによれば、最初の逢瀬は1745年2月のことだった。

1745年2月25日、ヴェルサイユ宮殿の大回廊で催された仮装舞踏会の席で、王とデティオル夫人が初めて口づけを交わしたとの噂が広まった。王はイチイの木に扮し、彼女は頭巾付きの黒い長衣をまとう姿だったという。

当初、君主とブルジョワ女性の情事は、宮廷では嘲笑の種でしかなかった。「まだただの求愛の段階であり、愛人などではない」とリュイヌ公爵は断じていた。だがルイはすぐにその誤解を晴らしてみせた。6月、ジャンヌは夫と別居し、同じ月に新しい称号「ポンパドゥール侯爵夫人」として王妃に正式に謁見したのである。

寵姫――そして、それ以上の存在へ

侯爵夫人としての第一歩は、不安定なものであったに違いない。それでも彼女は、作法と駆け引きが入り組んだ宮廷社会の案内役を見つけ出した。中でもベルニス神父は彼女の信頼を勝ち取り、やがて短時日のうちに大きな見返りを得ることになる。聡明な彼女は瞬く間に洗練を身につけ、自らの地位を盤石にしていった。

王が見出したのは、憧れの的であるにとどまらず、宮廷文化の卓越した主宰者だった。王を飽きさせず、いっそう深く結びつくために、彼女は王をもてなす術を学び抜いた。演劇の上演を企画し(自ら舞台に立つこともあった)、遊戯を計画し、哲学者や芸術家をサロンに招いたのである。

研究者フィリップ・ウルカードが指摘するように、彼女の庇護は特定の思想ではなく特定の人物に向けられていたが、学者や芸術家たちは彼女を献身的なパトロンとみなしていた。後年、彼女は芽吹きつつあった啓蒙主義の代表者として意識的に振る舞うようになる。読書に耽る姿や、書物に囲まれた肖像画が多く残されているのは、その証左だろう。

ヨーロッパで最も有名な愛人――ポンパドゥール夫人、その華麗なる生涯

ポンパドゥール夫人は「啓蒙された」イメージを意識的に演出した。だからこそ、しばしば本を手にした姿で描かれたのだ。

さらに注目すべきは、1750年頃にルイとの関係がプラトニックなものへと変わってからも、彼女が「王の寵姫」の座を守り抜いたことだ。ミエトンは『フランス外交の艶史』の中で、こう説明している。

やがて王の寵姫は、性病を患い、おそらく性的にも冷淡であったため、愛人との肉体関係を絶つ。それでも影響力を保ちたいがゆえに、王に「プチット・メートレス」を差し出す。それはヴェルサイユ近郊のパルク・オ・セルフ(鹿の園)で、王の気ままな相手を務める取るに足らない愛人たちのことである(訳注:フランス語で「鹿の庭園」の意)。これによって侯爵夫人は、自らの座を狙う女性との正面衝突を回避しようとした(…)

「鹿の園」の存在は一見、穏当な解決策のように思われたが、同時に「不快で下品」な仕組みでもあった。フランスの人々は、そこで最も奔放な宴が繰り広げられていると想像した。旧姓ポワソン(「魚」の意)にちなんだ「魚夫人」のあだ名で呼ばれた侯爵夫人の名声のみならず、君主自身の評価までもが傷ついたのだ。しかしジャンヌはこの方針によって、静かな「統治」を確保することに成功した。以後、ルイ15世のどんな愛人も――王家の血を引く子を産んだ女性でさえも――もはや彼女の脅威にはなり得なかったのである。

マリア・テレジアの「従妹」

その一方で王の寵姫は、政治への野心も育んでいった。最初の機会は早くも1746年、王太子(ルイ15世の長男)の結婚問題で訪れた。侯爵夫人は、サックス元帥が推すマリア・ヨーゼファ・フォン・ザクセン(ヴェッティン家出身)の候補を支持した。これに対し王妃マリア・レシュチンスカは、ザクセン家こそが自らの父からポーランド王位を奪った張本人であることを忘れておらず、アウグスト3世の娘を強硬に拒んだのだった。

1747年2月に執り行われた王太子の婚礼は、ジャンヌにとっての勝利となった。宿敵リシュリュー公爵ですら、それを認めたほどである。外交使節としてアウグスト3世のもとを訪れた際、彼はこう述べている。「陛下、この件に関しましては、ポンパドゥール夫人が我々によく尽力してくださいました」。

侯爵夫人はまた、1756年のフランス外交の大転換――いわゆる「外交革命」――にも絶大な影響力を発揮した。伝統的なプロイセンとの同盟に代わり、ルイ15世は同年4月1日、ヴェルサイユにおいてオーストリアとの条約に調印したのである。寵姫はこの同盟の熱烈な推進者であり、ベルニス神父とともに交渉を下支えしさえした。ニコラ・ミエトンはこう書き留めている。

オーストリア大使カウニッツは、マリア・テレジアが彼女に抱く友情を巧みに説いた。自尊心を呑み込み、偏見を捨て去った女王は、ほどなくして侯爵夫人宛ての手紙を認めることに同意し、彼女をmon amie(私の友人)、そしてma cousine(私の従妹)と呼んだ。「魚夫人」ことポワソン夫人は大喜びした。何しろ彼女は、風刺詩の中で自分を「コティヨン2世」と呼ぶプロイセンのフリードリヒ2世をひどく憎んでいたのだから(…)

これはアンシャン・レジームの時代においてさえ、信じがたい光景だった。「今日、ジュリー・ガイエとバルバラン枢機卿がウラジーミル・プーチンとの合意を目指して奔走していると想像できるだろうか?」――ミエトンは皮肉たっぷりに問いかける。

「この女性には何が残されているのか?」

ポンパドゥール夫人によるルイ15世宮廷での揺るぎない「統治」は、1765年4月15日の死まで続いた。彼女はヴェルサイユで息を引き取ったが、それ自体がひとつの特権だった。エチケット上、王族以外がこの宮殿で死ぬことは許されなかったからだ。病床の彼女を、国王は毎日見舞った。そして嵐の夜にもかかわらず、テラスに立ち尽くしながら葬列を見送ったのである。

「この女性には何が残されているのか? ヴェルサイユ条約、ピガールの彫刻『アムール』、ヴァン・ルーの絵画、そしてひとつまみの火薬」――ドゥニ・ディドロはまもなくこう記した。だがこの名高い哲学者は、今回ばかりは誤っていた。侯爵夫人の姿は、後世に確固として記憶されることになったのである。研究者カトリーヌ・トマが描くように、彼女のイメージは時代とともに大きく変遷していった。

すでに18世紀には、フランスに降りかかったあらゆる不幸の責任がポンパドゥール夫人に負われていた。人々は、王に代わって政治を壟断し、王国の財宝を蕩尽し、宮廷の誉れを汚したと非難した(…)。このイメージは19世紀の文学にも引き継がれた(…)。だが歴史上の人物像は次第に優雅な象徴へと姿を変え、その名はやがて快楽と優雅の世界を喚起するようになった。

「文字通りの意味で、私は今なおポンパドゥール夫人を悼んでいる。真の魅力の秘訣は、彼女とともに墓場へ持ち去られてしまったのだから」――作家ジュール・ジャナンは1832年にそう書いた。今日、「嫌われ者の魚夫人」を覚えている人はほとんどいないだろう。ヨーロッパで最も有名な愛人が遺したのは、ポンパドゥール・ヘアスタイル、セーヴル磁器、そしてあの特徴的な「ポンパドゥール・ピンク」なのである。