歴史物語

アンダース軍は「ポーランド軍」だったのか?──ベラルーシ人、ウクライナ人、ユダヤ人…多民族が共に戦った知られざる歴史

アンダース軍の兵士たちは一般的に「ポーランド人」として一括りにされてきた。しかし、ソ連領内で結成されたこのポーランド軍は、第二ポーランド共和国の元市民であるベラルーシ人、ウクライナ人、ユダヤ人、タタール人、リトアニア人、アルメニア人など、実に多様な民族で構成されていた。彼らの中には脱走を選んだ者もいれば、共通の祖国のために命を捧げた者もいる。知られざる多民族部隊の軌跡を辿る。

NKVDにとっての「真のポーランド人」

シコルスキー・マイスキー協定には国籍制限がなく、1941年8月12日のいわゆる「大赦」もソ連在住の全ポーランド市民を対象としていた。その結果、第二ポーランド共和国に住んでいた少数民族の代表者が大挙してポーランド軍に流入したのだ。

ポーランド部隊の編成当初、非ポーランド系が兵士全体の半数以上を占めていた。ソ連側はすぐに誤りに気づいた。ノーマン・デイヴィスは著書『希望の道』でこう記している。

「ソ連法は『民族性』と『市民権』を区別していた。NKVDの解釈では、母語がポーランド語でなく、ローマ・カトリック以外の信仰を持つ者は、ポーランド民族とは見なされなかった」
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ポーランドとソ連の合意は第二ポーランド共和国の全市民を平等に扱うものだったが、現実は異なっていた。ソ連の解釈では、いわゆる「西ウクライナ」「西ベラルーシ」の市民でポーランド民族でない者は、自動的にソ連市民権を取得したとみなされ、アンダース軍への徴募から除外されたのだ。

1940〜41年、これらは赤軍部隊に徴兵され、多くは「不確実な要素」として建設大隊(所謂「コスチューム」)に配属された。国境地帯出身の兵士たちが公開反乱を起こし、ポーランド軍への編入を要求した事例も知られている。

選ばれた者たちの軍隊

ソ連は早々に、非ポーランド系出身者のアンダース軍入隊を困難にした。1942年1月上旬、徴募を自前の徴募委員会(ヴォイコマート)のみで行うことを決定したのだ。

アンダース軍は「ポーランド軍」だったのか?──ベラルーシ人、ウクライナ人、ユダヤ人…多民族が共に戦った知られざる歴史

時には、志願兵の風貌や姓の響きだけで「ポーランド人らしさ」を疑われた。さらにソ連側は「ポーランド当局が少数民族を差別している」という噂を流布させた。

1942年12月、ソ連脱出後にポーランド軍司令部が実施した民族・宗教調査では、アンダース軍は将校・兵卒合わせて67,700名だった。このうちポーランド人以外の民族を申告したのは4,978名(全体の7%以上)に上る。最大グループはユダヤ人(約71%)、ついでベラルーシ人(16%)、ウクライナ人(12%)だったが、出身を隠した兵士もいたため実数はより多いとみられる。

ユダヤ人の大量脱走

東方領土(クレシー)出身のポーランド人の中には、赤軍を熱烈に歓迎したユダヤ系市民の姿を記憶している者も多い。しかし彼らも間もなく、「ソビエトの楽園」での生活が何を意味するかを知ることになる。1939〜41年にかけて7万人以上のユダヤ人がシベリアへ強制移住させられたのだ。

ポーランド軍への入隊は、その地獄から抜け出す唯一のチャンスだった。 それにもかかわらず、ユダヤ人兵士は不名誉な脱走統計でトップを占めた。1941年ブズルクでは、クイビシェフ空襲の噂で250名が脱走。さらに60名は武装解除の前夜に逃げ出した。

アンダース軍は「ポーランド軍」だったのか?──ベラルーシ人、ウクライナ人、ユダヤ人…多民族が共に戦った知られざる歴史

約5,000〜7,000人のユダヤ人(うち兵士3,500〜4,000名)がポーランド軍と共にソ連から脱出。さらなる脱走は1943年秋、パレスチナ領内で起きた。3,000名以上の訓練を受けたユダヤ教徒の兵士がアンダース軍を去った。その中にはミェチスワフ・ビェグン伍長、のちのイスラエル首相メナヘム・ベギンもいた。

ダビデの星の英雄たち

脱走の理由は様々だった。一部はソ連諜報機関の煽動によるもので、ポーランド軍内の反ユダヤ主義をでっち上げ、両民族を分断しようとした。しかし大半は、ハガナーなどユダヤ系地下独立組織への合流を目指していた。

不思議なのは、英国の圧力にもかかわらずポーランド司令部が脱走兵への処分を見送ったことだ。アンダース将軍自らこう述べている。「彼らは自分の家に留まり、自らの自由な祖国のために戦いたいのだ」

約1,000人のユダヤ人兵士がポーランド軍に残り、イタリア戦線で戦った。多くは衛生部隊・野戦病院の医師として従軍した。ノーマン・デイヴィスが指摘する通り、戦前ポーランドの医師の大半をユダヤ人が占めていたことを考えれば当然のことだ。

ユダヤ系外科医のアダム・グラバー中尉は、モンテ・カッシーノの戦いで負傷兵の手術中に戦死した。ユダヤ人兵士の戦死者は28名、負傷者69名に上り、戦功によりヴィルトゥティ・ミリタリ勲章6個、勇気十字章68個、功労十字章52個が授与された。

「我々はポーランドに属したい」

ベラルーシ人たちは進んでポーランド軍に加わった。彼らは実質的に何の問題も引き起こさなかった唯一の民族グループだった。 その忠誠を証明するのが、1942年9月、テヘランでシコルスキー将軍宛てに書かれた嘆願書だ。

アンダース軍は「ポーランド軍」だったのか?──ベラルーシ人、ウクライナ人、ユダヤ人…多民族が共に戦った知られざる歴史

ベラルーシ人一同の名で感謝を述べ、東方ポーランドが「自発的に」ソ連に編入されたとするソ連の説を否定。そしてこう宣言した。「我々はポーランドに属したい。ポーランド政府こそ我々の政府だ」

ベラルーシ人の中にも脱走者はいたが、多くはポーランド部隊に潜入したソ連工作員の扇動によるものだった。

彼らを信用できるか?

ウクライナ人はアンダース軍における第3の大規模少数民族だった。当時の報告書を読むと、ポーランド側が彼らをかなり警戒していた印象を受ける。ウクライナ民族主義者(OUN)へのシンパシーを疑う声もあった。

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それはある程度正当だった。1943年9月の報告によれば、東方ポーランド軍にはOUN構成員とみられるウクライナ人が28名いた。当時中東担当国務大臣だったスタニスワフ・コトはこう記録している。

「ベラルーシ人があまり民族的ダイナミズムを見せず、自分たちがポーランド市民であることを自覚していたのに対し、ウクライナ人はポーランド人以上に強烈な民族的ダイナミズムを示し、ポーランドが東方領土に二度と戻ることはないと深く確信していた」

ウクライナ系兵士の正確な数は資料によって異なる。ノーマン・デイヴィスは『希望の道』で最低5,000名としつつ、出身を隠した者が多いため実際はさらに多いとしている。

うち少なくとも2名、アンジェイ・ワイカとイェジ・アンドジェイェフはモンテ・カッシーノ記念十字章を受章。アンダース軍のウクライナ人兵士ミコラ・コージイは回顧録で、この戦いで最初のドイツ陣地を制圧したのはヴォルィニ出身のミハイロ・パンキウェツだったと証言している。

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リトアニア人、タタール人、アルメニア人…

アンダース軍にはポーランドのその他の少数民族も少数ながら参加していた。ブズルクではリトアニア人が独自の大隊を編成し、自国の国旗色のペナントを掲げていた。タタール人、アルメニア人の姿もあった。

アルメニア人では、戦前ポーランド軍将校で1939年従軍経験者のメリク・ソムチャニャン少佐が知られる。モンテ・カッシーノ総攻撃でカロル・ファンツラウ中佐が戦死すると、第4カルパチア狙撃大隊の指揮を引き継ぎ、593高地の奪取を成し遂げた。

もちろん、アンダース軍の主力はポーランド人だった。しかし、ナチズムとの共同の戦いに貢献した他民族の兵士たちの存在も、忘れてはならない。ボローニャ、カザマッシマ、ロレート、モンテ・カッシーノのポーランド軍墓地に並ぶ彼らの墓標こそが、彼ら全員が共和国の忠実な兵士であった証なのだ。