初代所長ヴィクトル・ブリュハノフの軌跡
1986年3月6日夕方、ミハイル・ゴルバチョフ書記長がクレムリン宮殿で外国共産党代表団をもてなすレセプションを開いていた頃、キエフ代表団の一員としてヴィクトル・ブリュハノフは夜行列車でキエフへ戻っていた。翌朝、キエフ駅で出迎えを受けた彼は、国際女性デーを翌日に控え花束を手にしていた。プリピャチの自宅まで150キロ、車で2時間以上の道のりだ。
若き技術者から原発所長へ
ブリュハノフ(1935年生まれ)はウズベキスタンのタシュケント近郊アングレンでキャリアをスタート。タシュケント大地震(1966年)を機に妻ワレンチナの勧めでウクライナのスラヴャンスクへ移り、火力発電所で頭角を現す。1970年、わずか34歳で「中央ウクライナ原子力発電所」(後のチェルノブイリ原発)の建設責任者に抜擢される。原子力の専門家でなかった彼が、ゼロから原発と街を建設する重責を担うことになった。
「チェルノブイリ」という名の由来と、幾重にも刻まれた歴史
建設地に選ばれたコパチ村付近には、古くからチェルノブイリという集落があった。1193年のキエフ年代記に初出し、ヨモギ(ウクライナ語で「チョルノビリ=黒いヨモギ」)に由来する地名だ。ヨハネ黙示録の「ニガヨモギ(ウォームウッド)の星」の預言と結びつけられる存在でもある。
この地はリトアニア大公国、ポーランド・リトアニア共和国、コサック、ロシア帝国、ソ連と支配者が変わった。ユダヤ教ハシディズムの中心地として栄えたが、革命と内戦、ホロドモール(大飢饉)、ナチス・ドイツの占領とホロコーストでユダヤ人コミュニティは壊滅。戦後のソ連時代も、戦争の英雄のみが顕彰され、ホロコーストや飢饉の犠牲者は忘れ去られた。
原発立地の選定と、困難を極めた建設
1966年、オレクサンドル・シェルバン副首相の提言により、キエフ近郊のコパチ付近が立地に選ばれた。プリピャチ川の水、鉄道、人口希薄地帯という条件が揃っていたが、地下水位が高く、建設資材の調達も困難だった。
ブリュハノフはプレハブ小屋を事務所に、24時間体制の工事を指揮。部品調達の遅れで1号機の完成は1975年予定が1977年9月にずれ込んだ。党の報告期限に合わせ「年末までに稼働」のプレッシャーが常にあり、品質管理は後回しになりがちだった。ブリュハノフは建設側と運営側の板挟みになり、不正な予算流用まで強いられた。
「原子力の街」プリピャチの誕生と、若き住人たちの暮らし
原発から北へ3.5km、レーニン大通りを中心に計画的に建設されたプリピャチ。コムソモール(共青団)の「衝撃建設プロジェクト」として全国から若者が集まった。平均年齢26歳、子供の多い若い家族の街だった。1986年には人口5万人近くに膨らみ、スーパーには品物が並び、国際規格のプールやアイスリンクまで造られた。
ブリュハノフは「予算を原発から街づくりに回す」不正を常態化させながらも、「万が一事故が起こればウクライナだけでなくソ連全体が立ち行かなくなる」と不安を抱えていた。
1986年3月8日、穏やかな朝の光景
モスクワから戻ったブリュハノフは、3月8日、妻ワレンチナへ花を渡し、娘夫婦の出産を待ち、社会主義労働英雄の金メダル受賞の噂を耳にしていた。地方紙には「自らの運命も、周囲の人々の運命も掌握しているかのように見える」所長の笑顔が掲載された。その数週間後、4月26日未明、4号機が爆発する。
おわりに
本稿は、『チェルノブイリ 核の災厄の歴史』(著:セルヒイ・プロヒイ、訳:山田和子、刊:白水社)の第1章冒頭部分を抜粋・再構成したものです。原発建設の舞台裏と、悲劇の前夜に生きた人々の息遣いを伝えます。