コリマの気温がマイナス51度を下回ると、囚人たちはバラックにとどまることが許された。マイナス50度では、一日中屋外で働かされた。防寒の備えはほとんどなく、囚人たちは薄着で、飢えと疲労に苛まれていた。何年も後、その一人が自らの体験を語り残した。
1940年、マチェイ・ジュオルニェルチク(Maciej Żołnierczyk)は25年の強制労働刑を宣告された。囚人たちが「呪われた島」と呼んだコリマ盆地のソ連強制収容所群に送られた彼は、鉱山での労働を命じられた。
過酷な労働、極寒、看守の残虐さ、毎日片道1時間に及ぶ鉱山現場への徒歩移動――それだけでも十分に恐ろしいものだった。ところが間もなく、経験の長い仲間の囚人たちは、やって来る冬の話で彼を脅かし始めた。言葉を発する必要すらなかった。回想録(『コリマ ソ連強制収容所のポーランド人』所収)の中でジュオルニェルチクは、彼らの姿を見るだけで分かったと記している。
昨年の冬をコリマで生き延びた者も何人かいたが、彼らは鼻も耳もない人々だった。まるで歩く死体の頭のような有様だった。その多くは、非常に温暖な南方出身の「ナチメニ」(ロシア人以外の民族――訳注)で、労働収容所にはそうした人々が大勢いた。そのような障害を負っていても、彼らは他の者と同じように働かされた。腐り落ちた鼻や耳を持ち、頬は黒い斑点に覆われ、鼻や耳が半分凍えてただれ、暗赤色に変色している者もいた。
「私たちの服はまったく役に立たなかった」
秋が来ると、ジュオルニェルチクは仲間たちの悲惨な話が少しも誇張されていなかったことを思い知らされた。「10月に大量の雪が降り、途方もない厳寒が訪れ、それが強弱を繰り返しながらずっと続いた」と彼は回想している。当時の彼自身は、生きるためのエネルギーを使い果たしたような感覚に陥り、足を引きずることしかできなかった。
寒さから逃れられる場所などどこにもなかった。それは囚人たちが暮らすバラックやテントの中までも支配していた。「眠っている間、髪の毛がテントの壁に凍りついたのです。薪を焚くドラム缶を2つ並べただけでは、熱源としてまったく不十分でしたから」――と別の元囚人アンナ・ミエチコフスカは語る。流刑者たちにとって、温もりはもはや遠い記憶にすぎなかった。

冬のコリマでは、気温がマイナス60度まで下がることもあった。
囚人に支給されたのは、綿入れの上着「テログレイカ」とズボン「ブリューキ」だけで、寒さを防ぐ力はほとんどなかった。頭は耳当て付きの綿帽で覆い、足には浅いゴム靴を履き、保温のためといってぼろ布で縛り付けた。そして最も苦しんだ手にいたっては、一年中、亜麻布の手袋1枚で覆われているだけだった。ある日、ジュオルニェルチクはその代償を痛い思いで知ることになる。
ある日、私たちはプリスク(鉱山)で機械や建物の雪かきをしていた。帰り道、いつものように労働収容所へ戻る途中、肩にツルハシと鉄のバールを担いでいた。(……)収容所に着こうとしたとき、鉄のバールを握っていた右手が石のように硬くなっているのに気づいた。右手の指は文字どおり鉄に張り付いていたのだ。右手の手袋はすっかり擦り切れて破れていて、私は素手で鉄を握っていたのだった。
「赤ん坊のように痛みで泣いた」
彼は雪で手をこすったり、氷水を張った洗面器に手を浸したりして、なんとか手を救おうとした。しばらくして凍った組織は解け始めたが、指の感覚は戻らなかった。手全体が焼けるように痛み続け、その後の日々は状況を悪化させる一方だった。
指はひどく痛み、サクランボのような赤色に変わりました。数日後、その赤色は黒く変わり、指から膿が滴り始めました――凍傷の広がりが一本の線ではっきりと分かったのです。壊死した部分は完全に腐り落ち、黒い骨が突き出ていました。小指は全部、薬指は半分、そして中指・人差し指・親指の先端まで、凍傷になっていたことが判明しました。
もはや打つ手はなかった――彼は手術のため運ばれた。医師は麻酔注射を試みたが、本人によれば、それはまったく効かなかったという。「その後、医師は金属製のピンセットで、壊死した組織や黒くなった指の関節を次々と引きちぎっていきました。私の指は一本、また一本と、ドスンという音を立ててバケツの中へ落ちていきました」と彼は語る。「切断のたびに、私は水揚げされた魚のように跳ね起き、赤ん坊のように痛みで泣きました」。

この恐ろしい手術の後、回復には長い時間がかかった。数日後には指が化膿し、傷口を切り開いて洗浄しなければならなかった。ようやく平常の状態に近づくと、すぐに労働への復帰を命じられた。軽作業を割り当てられたものの、それすら満足にこなせなかった。するとほどなく、収容所当局は「働きたくないがために、わざと指を凍傷にしたのだ」と彼を非難し始めた。当時の彼は、すでに「ドホードニク」――刑期が終わりに近づいた囚人を指す呼び名――となっていた。
あらゆる状況から見て、これ以上コリマで生き延びることは難しかったはずだ。しかし彼には幸運が味方した――早くも1942年、西方で編成されるポーランド軍に加わるため、強制収容所から解放されたのである。同じ瞬間を目にできた者は少なく、多くの囚人は永遠に消えることのない雪のブランケットの下で眠りについたのだった。
出典
本稿は、興味深い逸話や過去の驚くべき細部を短く伝える読み物シリーズの一つで、読了時間は3分以内。単一の出典に基づいています。
- 共著、『コリマ ソ連強制収容所のポーランド人』(フロンダ出版、2019年)