2004年2月24日、ヴィタリー・カロエフは航空管制官ペーター・ニールセンを殺害した。それは、ユーバーリンゲン事故で家族全員を失った男による復讐だった。
管制官殺害の動機となったこの惨事は、戦後ドイツの航空事故史上でも最も悲劇的なものの一つに数えられる。あの日、空の交通を管制していたのはニールセンその人であった。2002年7月1日、ドイツ南部の都市ユーバーリンゲンの上空で、DHLの貨物機ボーイング757とバシキール航空の旅客機Tu-154が空中衝突したのである。ボーイング757にはパイロット2名が搭乗していた。一方のTu-154には、スペインへバカンスに向かう52人の子どもを含む69人が乗っていた。乗客の中には、ヴィタリー・カロエフの44歳の妻スヴェトラーナと、11歳のコンスタンチン、4歳のディアナという二人の子どもがいた。生存者は一人もいなかった。ペーター・ニールセンと、スイスの航空管制会社スカイガイドの経営陣が、事故の主な責任を問われることになった。
無視された警告のサイン
当時46歳だったカロエフは、成功をおさめた建築家だった。家族に安定した暮らしをさせるため、1999年からスペインで働き始め、住宅団地の設計や施工監理を手がけていた。妻スヴェトラーナと子どもたちは、バシキリアの首都ウファで暮らし続けていた。2002年6月末、ヴィタリーはバルセロナでの大型プロジェクトを完了させて休暇に入り、9か月ぶりの家族との再会を心待ちにしていた。

事故で犠牲となったDHLボーイング757のパイロット
ウファからバルセロナへの旅は、二段階に分けられる予定だった。まず家族がモスクワへ飛び、そこからスペインへ向かうという段取りである。事故後のインタビューでカロエフは、出発前から旅の延期を示唆する不吉な兆候を、自分たちも無視していたと語っている。まず、予約システムのエラーにより、妻はモスクワ―バルセロナ便のチケットを購入できなかった。
結局チケットは手に入ったものの、悪天候のため家族は予定時刻にモスクワへ到着できず、飛行機に乗り遅れてしまった。スヴェトラーナは一刻も早く夫のもとへ合流する方法を探した。そして、バシキールの高官たちの子どもをバカンスへ送るチャーター便の座席を提案されたとき、彼女はこれを運命からの贈り物だと受け止め、即座に同意した。
不吉な予兆はそれで終わりではなかった。出発前のブリーフィングの直前、4歳のディアナが人混みから忽然と姿を消したのだ。文字どおり土壇場で発見され、こうして家族はバルセロナへと旅立っていった。
管制官の悲劇的ミス
不幸なことに、Tu-154とボーイング757の航路はボーデン湖上空付近で交差していた。両機はドイツ領空を飛行していたが、この区間の航空交通管制は、チューリッヒに拠点を置く民間企業スカイガイドが担当していた。その直前、同社の経営陣は独自のコスト削減政策を進めており、夜勤の管制官は通常2名のところを1名だけという異常な体制になっていた。さらに電話を含む一部の機器まで切り離されていた。悲劇の夜、管制塔にはペーター・ニールセンひとりが、補助員一名のみを従えて勤務していたのである。

事故の経緯を再現したCG
両機がボーデン湖上空を飛行するなか、ニールセンは両機が同じ高度におり、約1分後に衝突することに気づいた。管制官はTu-154のパイロットに降下を指示し、彼らは直ちに操作を開始した。しかしその同時刻、機内では自動衝突防止装置(TCAS)が作動し、逆に高度を上げるよう指示していた。ロシア人パイロットたちは、機械の指示を無視して管制官の言葉に従うことを選んだ。ところがニールセンは誤った情報を伝えてしまい、Tu-154のパイロットたちは混乱に陥った。
さらに事態を悪化させたのは、管制官がボーイング757のクルーにも降下を指示していたことだ。ボーイング側は自機の操作をニールセンに報告し続けていた。ところがニールセンはその声を聞いていなかった。別の端末で他の機の着陸を確認しなければならなかったからである。最終的に、両機のパイロットたちは互いの機影を目視した。最後の瞬間、衝突回避を試みたものの間に合わなかった。21時35分32秒、両機は高度10,634メートルで空中衝突した。ロシア機は四つに断裂し、衝撃はあまりにも強く、ボーイングの残骸はTu-154の残骸から最大7キロメートル離れた地点で発見された。
おぞましい発見
惨事を知ったヴィタリー・カロエフはすぐにドイツへ飛んだ。彼は救助隊を説得し、遺体捜索への参加を許された。生存者は一人もいなかったのだ。草むらに散らばった娘のビーズ細工に気づいたのも彼自身であり、ディアナの遺体を自ら発見した。少女は木に引っかかっていたという。
カロエフは家族をウファに埋葬した。葬儀には数十万人の人々が集まり、ヴィタリーは妻と子どもたちのために黒大理石の壮麗な墓碑を造らせた。葬儀後もスペインで働き続けたが、やがて故郷へ戻り、亡き家族のそばにいることを選んだ。彼は墓地で長時間を過ごすようになり、親族や友人たちは、夜中でさえそこに佇むことがあったと語る。墓前にて、妻や子どもたちと長く語り合っていたのだ。

Tu-154がボーイング757と衝突する瞬間を再現したCG
カロエフは事故に関する捜査を注意深く見守っていた。ドイツの裁判所は、悲劇の最大の責任はスカイガイドの経営陣にあると判断した。管制官の人数を削減し、乗員・乗客の安全を脅かしたのは彼らだったからだ。また、ペーター・ニールセンにも衝突の責任があるとされた。一方で、TCASの警報を無視して管制官の指示に従ったTu-154のパイロットたちにも過失があったことは認められた。
カロエフの復讐
カロエフは、スカイガイドとニールセンが罪を認めて謝罪することを期待していた(実際に事故の直接責任はないとはいえ、DHLは幾度も謝罪していた)。ヴィタリーはチューリッヒまで足を運び、ニールセンに会い、「申し訳ない」という一言を聞こうとした。ホテルにチェックインすると管制官の住居へ向かい、建物の前で待ち伏せたのである。男が現れると、カロエフは子どもたちの写真を手に近づき、彼らの死に責任を感じているのかと問いただした。ニールセンは何も答えず、ヴィタリーの手を払いのけ、写真は地面に散らばった。カロエフは後にこう証言している。「汚れた歩道に広がった我が子の顔を見たとき、子どもたちが墓の中で身悶えしているように感じた。その後何が起きたのか、覚えていない」。

スカイガイド本社前に設置された事故犠牲者の記念碑
ニールセンは12か所を刺されて死亡しているのが発見された。ヴィタリーは翌日逮捕された。抵抗はせず、自分に何が起こっても構わないと語ったという。スイスの裁判所は管制官殺害の罪で彼を有罪とした。犯行時に心神耗弱状態にあったとは認められなかったが、ロシアの法精神医学の専門家たちは異論を唱えていた。2005年、カロエフは懲役8年の判決を受けた。しかし2年後、模範囚として釈放され、ウファへ帰還。故郷では温かく迎えられた。
当局はカロエフの知識と職業経験を高く評価した。2008年から2018年まで、彼はバシコルトスタン共和国の建設・建築大臣を務めた。2018年には再婚し、双子の父親となった。
参考文献:
- シモーノフ「カロエフ事件――すべての重い罪は嘆き悲しむ父の肩にかかった」ria.ru(2022年2月4日閲覧)。
- 「カロエフ、スイスからロシアへ帰国」news.bbc.co.uk(2022年2月4日閲覧)。
- TV番組『新しいロシアのセンセーション』:「ヴィタリー・カロエフ 復讐者の告白」(НТВ、2017年)。