ナチスにとって強制収容所の囚人は、人間としての価値を持たず、せいぜい「歩く道具」にすぎませんでした。この冷酷な組織は、奴隷労働と極限的な搾取に基づくビジネスモデルを完成させます。ドイツ産業界には、ほぼタダ同然の労働力を求める買い手が大勢いたのですから、組織は多大な利益を上げることになりました。
ドイツ産業界の巨人たちにとって、第二次世界大戦は安価な労働力を獲得する絶好の機会となりました。I.G.ファルベンインドゥストリー社やクルップ社といった第三帝国の大企業は、強制収容所に送られた囚人を使役しました。世界的紛争の勃発前に始まった多くのプロジェクトも、こうして完成へと向かったのです。その一例が、1930年代に着手された、ベルリン〜ヴロツワフ(ブレスラウ)〜グリヴィツェ、さらに総督府領成立後はクラクフまでを結ぶ高速道路(アウトバーン)の建設でした。
10万人の「無料労働力」
強制労働者を収容する労働キャンプが設けられると、道路建設のペースは加速しました。最初の3つの所謂ライヒスアウトバーンラーガー、略してRABラーガー(高速道路建設用キャンプ)は、早くも1939年にカトヴィツェ地区とオポーレ地区に設置されています。当初、その存続期間はさほど長くないものと想定されていました。しかし、囚人搾取から生まれる利益はあまりにも大きく、親衛隊(SS)のトップであるハインリヒ・ヒムラーは事業全体の拡大を決意します。
聖アンナの丘(グーラ・シフィエンテイ・アンナ)。1940年、組織シュメルトの監督下にある収容所の一つがここに設立されました。写真は1930年代半ば。
1940年9月付の公式文書の中でヒムラーは、上シュレージエンのすべてのユダヤ人を採石場や道路建設に動員するよう命じました。これは非常に大きな人口集団です。1939年の時点で約10万人と見積もられていたのです!
高速道路網の建設には何千人もの労働者が必要でした。ナチスはこの目的のため、組織シュメルトが監督する収容所の囚人を積極的に利用したのです。
収容所ネットワークを作り、さまざまな作業に労働者を「派遣」する任務は、アルブレヒト・シュメルトに託されました。彼の名前こそが、1940年末に設立された組織――「組織シュメルト」の由来です。本部はソスノヴィエツに置かれ、事業全体は上シュレージエンのSSが管理し、そこから巨額の利益を吸い上げていました。
シュメルト自身は模範的なナチ党員であり、ヒムラーの寵児でした。後ろ盾のおかげで第三帝国の行政機構内で昇進を重ね、まずライヒスフューラーSS兼ドイツ警察長官の代理として、上シュレージエンにおける外国籍者雇用の担当に就きます。続いて1941年にはオポーレ県知事に昇格しました。彼の組織も同時に拡大していきました。1940年に35カ所、1941年に16カ所、1942年に24カ所、そして1943年には8カ所の労働キャンプが新設されています。
やがて、このドイツ人官僚が組織した労働キャンプのネットワークは、上シュレージエンの枠を超えていきました。下シュレージエン県には52カ所、ズデーテン地方には17カ所のキャンプが運営されていました。では全体で何カ所あったのか? 今日でも正確な数の特定は困難です。ドイツ側の文献には177カ所との記述があり、ポーランドの歴史家の研究では162施設と言及されています。
おそらく、この数は時代とともに変化していたと考えるべきでしょう。一因としては、組織シュメルトの一部の拠点が、グロス・ローゼンやアウシュヴィッツ=ビルケナウなど、より大きな強制収容所に吸収されたことが挙げられます。これらの収容所は、第三帝国にとって重要な工業施設の至近距離に位置していました。こうした事例は特に1942年以降に多く見られました。
ユダヤ人だけではなかった
組織が管理するキャンプには、主に上シュレージエンのユダヤ人少数派の人々が送り込まれていました。ソスノヴィエツのユーデンラット(ユダヤ人評議会)のすぐ近くにシュメルトの本部が置かれていたことも、「労働者」の効率的な調達に少なからず寄与しました。また、東上シュレージエン・ユダヤ人長老評議会本部の議長モーゼス・メリンも協力していました。
文献では「シュメルトのユダヤ人」という呼び名が定着していますが、彼らは高速道路建設だけでなく、他の産業分野でも働かされました。1941年春以降、軍需産業や繊維産業の工場に姿を見せるようになり、鉱山や重工業でも彼らの存在が確認されています。
最盛期の1943年には、組織の各拠点に最大5万人もの囚人がいたと推計されています。ただしこの時点で、そこにいたのは上シュレージエン出身のユダヤ人だけではなかったことに留意すべきでしょう。
コジレ駅に設けられた銘板。西欧のユダヤ人を乗せた移送列車の一部は、アンネンベルク労働キャンプなどへ向かったことを記念している。
ヨーロッパ各地のユダヤ人に加え、ポーランド人、オランダ人、チェコ人、オーストリア人もシュメルト管轄のキャンプに送られました。各キャンプの収容者は数百人規模で、最大のプラディのブランデ収容所には600人、聖アンナの丘のアンネンベルクには400人、オシェクのアウエンローデには300人が収容されていました。
「女性たちは良き主婦のように掃除を…」
一部の資料には、組織シュメルトの各施設での労働は他の場所より楽だったという記述があります。ゲッパースドルフ(現ミレンツィツェ)の元収容者サラ・ガルンカルツの言葉は、一見その説を裏付けるように見えます。
男たちは毎朝近くの建設現場に出かけ、女たちは良き主婦のように、夫が出勤した後の掃除や炊事をしました。午後には、各収容者に特別な食料切符が配られ、そこには受け取るべきパン、バター、スープの量が明記されていました。
しかし、これほど事実から遠い見方もありません。囚人の処遇は、他の労働キャンプや強制収容所と同じく、担う役割と遂行すべき課題によって左右されました。そもそもシュメルト管轄下の全キャンプの編成は、オラニエンブルク強制収容所本部が採用した方式に準拠しており、そこは依然としてナチスの絶滅システムの一翼を担う存在だったのです。囚人たちは非人道的な条件下で働かされました。表土の掘削、荷車への積み込み、線路へのレール敷設、森林の伐採などが彼らの仕事でした。
限界を超えた労働は、ナチスが収容所の囚人を抹殺するために用いた手法の一つでした。(イメージ写真)
作業は専門機材なしに行われました。囚人たちは巨大な丸太を何キロメートルにもわたって運んだのです。夏季の平均労働時間は12〜14時間、冬季は8〜10時間。事故は日常茶飯事で、しかもすべてが記録に残されたわけではありません。時折与えられた日曜日の休みは、主に洗濯と大掃除に費やされました。
多くの強制労働者の証言によれば、キャンプの衛生状態は劣悪を極めていたといいます。収容者には医療ケアがなく、各拠点は病原体を運ぶ害虫が蔓延していました。加えて飢餓がありました。高速道路建設で働いた元収容者ルドルフ・シェーンベルクの指摘によれば、一日の食事は200〜400グラムの堅いパンと水っぽいスープだけ。ときどき25グラムのマーガリンが支給される程度でした。無理もありません。組織シュメルトが一人あたりの食事に割り当てたのは……わずか0.90マルクだったのですから。
囚人=金
ナチス組織があらゆる場面で実行した節約――粗末な食事、適切な衣服や道具の欠如――は、彼らが得ていた経済的利益とはまるで釣り合いませんでした。囚人一名の維持費は1日約1.5マルクだったのに対し、熟練労働者の雇用コストは平均1日6マルク。未熟練労働者でもわずかに安いだけで、4.5マルクかかりました。興味深いことに、シュメルトが「自分の」ユダヤ人に対して設定したこの料金は、1942年以降、収容所システム全体で標準となっていきます。
囚人たちの奴隷労働は、ナチスに莫大な利益をもたらしました。
計算してみれば容易に分かる通り、囚人の貸し出しからシュメルトの組織が得た収入は途方もないものでした。パルシュニッツで操業していたアロイス・ヘッセ社は、300〜310人の囚人の賃借に月2万〜2万1000マルクを支払っていました。このほかの「顧客」も含めると、1942年9月には組織の銀行口座に1150万マルクがあったのです。
それほどの大金は、多くの人間にとって垂涎の的となったことでしょう。アルブレヒト・シュメルト自身も誘惑に負け、それが彼の転落につながります。1944年、彼はオポーレ県知事の座を失い、その後汚職容疑で法廷に立たされました。このスキャンダルの後、かつてのヒムラーの寵児はおそらくオポーレ近郊の自身の邸宅に引きこもりました。戦争が終わるとシュクラルスカ・ポレンバへ移り、そこで自ら命を絶ったのです。
一方、キャンプ網を管理した組織自体は、終戦を迎えることはできませんでした。早くも1942年には、SS首脳部からの支援の後退が顕著になっていました。主因は高速道路建設工事の中断です。各キャンプは次第に閉鎖され、1942年から1943年にかけて実に51カ所が機能を停止。さらに23カ所が1944年に閉鎖されました。ここからシュメルト帝国の終焉が始まったのです。
参考文献:
本記事は、マチェイ・シェンビエンダの小説『Miejsce i nazwa(場所と名前)』(Wielka Litera出版、2018年)に着想を得ています。