歴史物語

17世紀オランダの殺人とメディア――パンフレットが煽った「災厄の年」1672

ネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国)の躍動と停滞は、2011年の歴史試験の重要テーマでした。この時代の動きにおいて鍵となったのがメディアです。パンフレットは、当時の社会問題をめぐってオランダ人同士の公開討論を引き起こしました。その結果、権力者たちは市民の意見をますます考慮せざるを得なくなりました。これは政治参加の拡大といった好ましい結果をもたらす一方で、殺人事件につながることもあったのです……。

17世紀のニューメディア

17世紀には、今日私たちが「情報革命」と呼ぶ大きな発展が起こりました。この時期、西ヨーロッパの人々の生活は、あらゆる分野で根本的に変化しました。文化、文学、科学、そしてとりわけ政治は、印刷された情報がますます速く流通することで勢いを得たのです。

この流れの最前線に立っていたのがオランダ共和国でした。スペイン支配に対する反乱(八十年戦争、1568年~1648年)は、オランダ史上初のプロパガンダ戦争でした。16世紀後半以降、政府をめぐる意見の対立が、印刷物による世論の表明なしに過ぎ去ることはほとんどありませんでした。さらに共和国はヨーロッパの情報市場のハブとして機能し、かつてない数の印刷業者、書籍商、作家を輩出しました。

パンフレットで意見を表明する

大衆に向けて意見を発信する主な手段となったのがパンフレットでした。パンフレットとは、読者を説得することを目的として書かれた印刷物と言えます。多くの場合は匿名で、オランダ語で書かれた短い出版物であり、時事問題への論評を提供していました。ときには威厳ある学者たちによる巧妙な論述として、また別のときには下品な罵り合いとして現れることもありました。

パンフレットは実にさまざまな形式を取りました。(偽造の)手紙、目撃証言、歌、嘆願書、政府の決定、ニュース記事、論評、詩、対話など。その形式、長さ、内容は多岐にわたりました。パンフレットは貧富を問わず読まれ、手渡されたり、識字能力のない人々に読み聞かされたりしました。市場で、酒場で、友人宅を訪ねたとき――パンフレットはどこにでも存在していたのです。

1672年「災厄の年」

17世紀のコミュニケーションがどのようなもので、どんな結果を生み出しえたのかを見るうえで、1672年は格好の事例です。この年はあまりにも多くのことが裏目に出たため、「災厄の年(ランプヤール)」として知られるようになりました。そしてそれは最終的に、政治家ヨハン・デ・ウィットとその兄コルネリスの凄惨な虐殺へとつながりました。この殺人は貧しい民衆の仕業であると非難されることが多いのですが、目撃者の証言に耳を傾けると、実態は異なることがわかります。この悲劇の前には、何があったのでしょうか?

まず1672年春、共和国はフランス、ミュンスター司教領、ケルン、そしてイングランドから攻撃を受けました。特に東からのフランス軍の進撃はあまりに迅速だったため、オランダ全土をパニックが襲いました。このパニックは、さまざまなパンフレットによって大きく煽られました。1672年には1600種類以上のパンフレットが登場し、総発行部数は100万部を超えました。平年の総発行部数が約1万部であることを考えれば、これは途方もない数字です。

17世紀版「ツイッター」

これらのパンフレットは、今日のツイートに例えることができます。悪いニュースは即座に拡散され、あっという間に誰もが知るところとなるのです。1672年、パンフレットはかつてない速度で共和国中を駆け巡りました。災厄の年には、アムステルダムの人々は一日以内に、共和国のほとんどの地域で何が起きたのかを知ることができました。しかし、彼らが耳にしたのは惨憺たる状況の報告ばかりでした……。

ナイメーヘン、アーネム、ユトレヒトといった都市は、次々と陥落していきました。都市や防衛拠点がフランス軍とドイツ軍の手に落ちたことよりも深刻だったのは、ほとんど抵抗がなかったという事実でした。臆病な降伏の噂が流れる一方で、人々はまだ自由な地域での勇壮な戦いの報告を求めていました。さらに数千人の難民が、現在のランスタッド(西部都市圏)へと逃れてきました。共和国は崩壊の淵に立たされているように見えたのです。

「裏切りだ!」

「実際のところ、裏切り以外に考えられない」――多くのパンフレット作者はこう書きました。この考えは災厄の年に急速に広まりました。パンフレットに繰り返し記されたことも一因ですが、最大の理由は、オランダ全土の何千人もの人々が、自らの街と国が目の前で崩壊していくのを目撃したからです。そして彼らは心から、執政(レーゲント)たち――ヨハン・デ・ウィットを筆頭に――がその責任を負っていると確信していたのです。実際、政治家たちは防衛体制の構築を先延ばしにし、オラニエ公ウィレム3世を統治から排除し、近年は軍備を削減し、身内を要職に就けていました。最初の石が瀟洒な邸宅の窓を突き破るまで、時間はかかりませんでした。

憎悪が頂点に達する

8月20日、ハーグで執政たちへの憎悪は頂点に達しました。何千人もの市民が、ヨハン・デ・ウィットとその兄コルネリスを殺害したのです。その後、群衆は遺体を切り刻み、一部は食べ、身体の一部を最高入札者に売り払いました。

ハーグの弁護士アドリアーン・ファン・デル・フース――後に弟宛ての手紙でこの惨劇を綴った目撃者――によれば、殺人を実行したのは扇動された貧しい無頼の徒ではなく、銀細工師や靴職人といった善良な市民だったのです。

オラニエ公ウィレム3世も、殺害の二日後に行われた会合で同様の認識を示しました。彼は出席した将校たちに対し、なぜ殺人者を訴追することが得策ではないと考えるのかを説明したのです。善良な市民を訴追すれば、事態はさらに危険になると彼は判断しました。

パンフレットが殺人者をつくった

つまり、殺人者は一般市民であり、その中には名士も含まれていました。では、なぜ彼らは8月20日になって、あのような異常な手段に及んだのでしょうか?おそらく、国家の最重要政治家であったヨハン・デ・ウィットとその一派が、過去20年間で最悪の危機を招いた無能な統治の責任を問われていたからでしょう。加えて、彼らはひどい評判にまみれていました。腐敗しており、公金を着服し、市民とオラニエ公を政治から締め出して共和国の政治構造を損ない、共和国をフランスに売り渡そうとした――などと喧伝されていたのです。

もちろん、これがすべて真実だったわけではありません。しかし何百ものパンフレットにそう書かれ、疑念を抱くには十分すぎる材料があり、こうした主張が世論の主流となっていったのです。主にパンフレットを通じて展開された公開討論が、この殺人にとって決定的な意味を持ったことは明らかです。災厄の年1672年に100万部を超えるパンフレットが出回ったのは決して偶然ではありません。パンフレットが市民を、デ・ウィット兄弟の殺害へと心理的に準備させていたのだ、とさえ言えるかもしれません。

目には目を、歯には歯を

いずれにせよ、これらの政治的出版物は、殺人が多くの人々の想像の中で「正当な」解決策と映るまでに、先行する数週間で蓄積した緊張を理解するうえで極めて重要です。殺人者たちは、この行為によって問題を解決していると感じていました。彼らにとって流血は目的ではなく、共和国を救うための手段だったのです。

パンフレットは、人々を動かしたものだけでなく、虐殺について国の他の地域がどう受け止めていたかをも物語っています。この殺人は、私刑を執行した(有力な)市民たちによる行為でした。パンフレットはデ・ウィット兄弟殺害の唯一の原因ではありませんが、惨劇の数週間前に人々が何を議論していたのか、そしてそれらのイメージや言葉、観念が8月20日の出来事といかに結びついていたのかを垣間見せてくれるのです。

パンフレットは特定の政治的雰囲気を醸成しました。そこではパンフレット作者たちが、ヨハン・デ・ウィットのいない理想世界を描いていたのです。彼らはヨハン・デ・ウィットの「除去」について書き立てました。そうすれば問題は自動的に過去のものになると。ただし、ほとんどの作者が想定していたのは男の「消滅」であって、殺人そのものではありませんでした。

しかしそうした論調に続き、より暴力的な結末を求める書き手たちが現れました。死だけでは償いとして不十分だったのです。デ・ウィット兄弟は刑罰の全容を受けねばならないとされました。そこで群衆は遺体を剥き出しにし、処罰の次の段階へと進んだのです。「正義」を執行するために、指、手足、内臓を死体から切り取りました。彼らの目には、それが極めて公正で理にかなった行為に映っていたのです。彼らは当時の応報の原則――目には目を、歯には歯を――に従っていました。目撃者のアドリアーン・ファン・デル・フースによれば、殺人はまるで合法的な処刑であるかのように整然と進行しました。別の匿名の目撃者も、すべてがあまりに円滑に運んだことに驚きを覚えています。

象徴となった四肢

デ・ウィット兄弟の身体の各部分は、彼らの(疑わしい)罪を象徴していました。だからこそ、誰かがヨハン・デ・ウィットの右手の指を切断したのです。永続勅令(総督職の廃止)に署名した、あの右手です。その後、腕や脚が切り落とされました。ちょうど1672年、無能な統治の結果として共和国の都市や州が敵に「切り取られた」のと同じように。こうして身体のあらゆる部分が「処罰」されました。性器も例外ではありませんでした。

ヨハンとコルネリスのデ・ウィット兄弟の殺害が、実際に起こるはるか前から共和国の公開討論の中で話題となっていたという事実は、この惨劇が急進派の陰謀でも、扇動された貧民による手に負えなくなった暴動でもなかったことを示しています。したがって、この殺人をより深く理解するためには、殺人者たちとその動機を真剣に受け止める必要があります。幸いなことに、その動機の数々は、パンフレットの中に今も色濃く残されているのです。