スペイン内戦から80年
今年の夏、スペイン内戦勃発から80年を迎える。数百人のオランダ人がファシスト・フランコと戦うためにスペインへ渡ったにもかかわらず、彼らの活動も内戦そのものも、オランダの歴史書からはほぼ消え去ってしまった。
1936年、ヒトラーはベルリンでオリンピックを開催した。これに反発する動きもあり、バルセロナでは同年夏に代替大会となる「人民オリンピック」の開催が計画された。しかし、その開幕直前にスペインでクーデターが発生する。フランシスコ・フランコ将軍率いる国民軍が北アフリカから共和制政府を攻撃し、これがスペイン内戦(1936~1939年)へと発展したのだ。
内戦はオランダ人をも引きつけた
政治的に激動した1930年代は、ヒトラーとムッソリーニが権力を握ったドイツとイタリアにおけるナチズムとファシズムの台頭として、主に記憶されている。しかし同時期、スペインではやがてフランコ将軍による独裁体制で終わる内戦が勃発していた。
1931年、スペインの共和派は地方選挙で圧勝し、共和制樹立を求めた。騒乱の中でアルフォンソ13世国王は亡命し、ここにスペイン王国は終焉を迎えた。
左派と右派の支持者間の緊張は高まり続け、5年後にその「爆弾」が炸裂する。再び選挙に勝利したのは左派共和派だったが、右派国民派は諦めずクーデターを起こしたのである。ファシストたちは直ちに、ヒトラーとムッソリーニからの武器と兵力の支援を受けた。これに対抗して、数万人もの外国人義勇兵がスペイン共和派のもとに駆けつけた。その中には、代替オリンピックのためバルセロナに滞在していた多くの選手や関係者も含まれていた。外国人たちは「国際旅団」を結成し、言語別に部隊編成された。言葉が分からなければ命令に従うことも難しいからだ。
スペイン内戦は国外でも大きな注目を集め、オランダも例外ではなかった。映画館のニュース映像で取り上げられた最初の戦争でもあった。こうして600人から800人ほどの男女が理想に燃えてスペインへ渡った。男性たちはファシズムと戦うため、女性たちは看護師として支援するためである。その動機は左翼的な理念だったり、純粋な人道主義だったりした。
当時すでにバルセロナに住んでいたファニー・スフーンハイトは、フランコと戦った唯一のオランダ人女性である。このテーマに長年取り組んできた研究者イヴォンヌ・スホルテンは2011年、「マシンガンの女王」としてバルセロナで知られたスフーンハイトについての本を出版した。だが、特別な物語を持つのは彼女だけではない。スホルテンは長年にわたり多くのスペイン戦争義勇兵にインタビューし、その証言を書き留めてきた。(スペインで戦った約700人のオランダ人のうち、最後の生存者は2010年に亡くなっている。)
スペインへ向かったのはどんな人たちか
ファシズムと戦うためにスペインへ渡ったオランダ人義勇兵とは、どのような人々だったのだろうか。スホルテンはこう語る。「彼らの大半は共産主義者や社会主義者など、左翼的な政治的背景を持つ若い男女でした。さらに、オランダに避難していたユダヤ系ドイツ人難民もいました。彼らは左翼の家庭にかくまわれ、ヒトラー政権下の恐ろしい実態を語って聞かせました。当時の大多数のオランダ人は、海外で台頭しつつあるファシズムなど自分たちには関係ないと思っていましたが、彼らは違いました。『スペインがファシストの手に落ちれば、ヨーロッパは終わりだ』と考えていたのです」
スペインにやって来た青年たちの大半は労働者階級の出で、国境を越えたことすらなかった。彼らの手紙には、戦闘のことだけでなく、スペインでの日常の様子も綴られている。例えばアムステルダムの自転車修理工で共産主義者のクリスティアーン・ファン・フェーンはこう書いている。「ここでは間違いなくスペインワインを飲んでいます。水よりワインの方が多いのですから。朝は水がないのでオーデコロンで顔を洗っています」
一部の義勇兵はスペインの村で一般家庭に寄宿し、そこの暮らしに驚嘆することもあった。ただし言葉の壁から、スペイン人との意思疎通は最小限にとどまった。それでもスホルテンいわく、手紙の中でスペイン人については、義勇兵たちが受けた温かい歓迎とともに、深い愛情をもって語られているという。
帰国後の冷遇
1938年、スペイン政府は国際旅団を解散させ、現地に残っていたオランダ人義勇兵は帰国を余儀なくされた。しかし故郷で彼らを待っていたのは、複雑な歓迎ぶりだった。「左派のオランダ人は熱狂的な歓声でスペイン帰りの兵士たちを迎え入れましたが、右派は彼らを非難し、テロリスト呼ばわりしました。1939年の『デ・テレグラーフ』紙の記事には、『危険人物』『爆破魔』といった言葉が並んでいます。とはいえ、現在のシリア帰りの人々に対するような世間全体の嫌悪感があったわけでは決してありませんでした」とスホルテンは説明する。
帰国後、義勇兵たちは苦しい立場に置かれた。外国の勢力のために戦うことは法律で禁じられており、彼らは国籍を剥奪されたのだ。「この規定は1937年にはさらに強化され、『スペインのための戦闘』が明示されました。国籍を失った彼らは生活支援を受けられず、出国も公務員として働くことも許されませんでした。しかも、義勇兵の名前は中央情報局(CID)に把握されていたのです」
1940年に第二次世界大戦が勃発すると、この情報はドイツ占領軍の手に渡る。フランコとその同盟国ドイツと戦っていた彼らは、当然ながら怪しまれる存在となった。「彼らの多くは身を隠し、レジスタンスとしてファシズムとの戦いを続けました。レジスタンス最初の武装組織は、元スペイン義勇兵たちによって結成されたのです」
第二次世界大戦後は冷戦が始まり、続いた。共産主義と結びつく者はすべて疑わしい目で見られた。少しずつ義勇兵たちは国籍を回復していったが、全員が名誉回復されたのはようやく1970年代になってからだった。オランダにとって共産主義は扱いの難しいテーマであり、中には生涯共産主義者であり続けた義勇兵もいた。
警察の尋問と残された記録
スホルテン自身は共産主義者の家庭に育ち、幼い頃からスペイン戦争の英雄譚を聞いて育った。彼女の心をつかんで離さないのは、子供時代の「英雄」たちの人間味あふれる物語だ。何が彼らを、故郷から遠く離れた異国での戦いへと駆り立てたのか?
「調査で私の心を打ったのは、ごくささやかな出来事です。例えば、そこがどれほど危険な場所だと皆が分かっていたのに、少年たちは手紙の中で故郷の家族を安心させようとしたこと。友人が目の前で撃たれるのを見ながら、できる限りスペインの暮らしに馴染もうとしたこと」とスホルテンは語る。
例えばエメンの農家の息子アーレント・ハークは、こう書き送っている。「ここでは収穫の手伝いをしています。一方、ファシストどもは作物を踏み荒らすばかりです」。アーレントは内戦を生き延びられなかった。また、ロッテルダムの反ファシズムの港湾労働者ヤーコプ・ヘショフは、スペイン時代の写真を貼ったスクラップブックを家族に遺している。
手紙は、スホルテンが調べた貴重な資料の一つだ。それらは国立公文書館や警察・司法のアーカイブに保管されていた。「帰国した義勇兵たちは皆、警察の尋問を受けました。押収された手紙もたくさん見つけました。ある義勇兵の母親宅を警察が訪れ、戦場にいる息子の手紙を差し出させたという例もあります」
その他の資料源としては、国際旅団のアーカイブや、1970~80年代に行われた義勇兵へのインタビューがある。共産主義への恐怖が薄れ、スペイン内戦への関心が花開いた時期だった。オランダ人によるスペイン義勇兵に関する最初の本が出版されたのは、ようやく1986年のことだった。
忘れられた歴史に光を当てる
スホルテンによれば、オランダにおけるこの内戦に関する知識はほぼゼロに等しく、このテーマにはもっと光を当てる必要があるという。「スペインで起きたことは、第二次世界大戦の序曲でした。この内戦には、あらゆる大きなテーマとイデオロギーが詰まっています。ファシズム対共産主義、イデオロギーへの情熱と連帯、そして裏切りと深い失望。今もスペインではこの戦争が生きていて、ほぼすべての小説にこの戦争への言及があります」
6月のサイト公開以来、スホルテンのもとにはすでに義勇兵の親族からいくつもの反応や新情報が届いている。調査はまだ終わりではなく、名前のリストも未完成だ。彼女は資料収集と執筆を手伝うボランティアのグループと協力している。現在、サイトには700人の名前と、長短合わせて181の伝記が掲載されている。しかし、さらに200件分の伝記を書けるだけの資料が残されているという。