歴史物語

ジュリアス・シーザーとは誰か?ローマ史を変えた独裁官の栄光と最期

ジュリアス・シーザーとは誰か?ローマ史を変えた独裁官の栄光と最期

ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar)は、ローマ史上もっとも重要な人物の一人です。終身独裁官としてローマに王政への第一歩をもたらした存在であると同時に、その類まれな軍事的才能によって、ゲルマニア(ドイツ)、ブリタニア(英国)、ガリア(フランス)、ギリシア、エジプト、そしてポントスにまで遠征軍を率いて征服した偉大な指導者でもありました。

第一回三頭政治と権力への道

カエサルは、グナエウス・ポンペイウス・マグヌス(ポンペイウス)およびマルクス・リキニウス・クラッススとともに「第一回三頭政治」を結成し、ローマ政界の実権を握りました。

ところが紀元前53年にクラッススが戦死すると、カエサルとポンペイウスの対立が表面化します。紀元前49年、カエサルは自らの軍団を率いて国境の川ルビコンを渡河し、「賽は投げられた(alea iacta est)」の言葉とともに内戦の火ぶたを切りました。この内戦に紀元前48年ついに勝利したカエサルは、ローマの独裁官の座に就くことになります。

王冠をめぐる二つの有名な逸話

カエサルの独裁政治を語るうえで欠かせない、強烈な印象を残す二つのエピソードがあります。

立像の足元に置かれた王冠

ある朝、カエサルの立像の足元に、ローマ王権の象徴であるディアデム(王冠)が置かれているのが見つかりました。二人の護民官はこれを「カエサルが自らローマ王になろうとしている証拠だ」と非難しました。しかしカエサルはただちに元老院を招集し、「王冠を置いたのは二人の護民官自身であり、民衆を混乱させて自分を陥れるための仕掛けだ」と逆に告発しました。結局、二人の護民官はその職を剥奪されることとなりました。

ルペルカリア祭での出来事

より重要なのが「ルペルカリア祭」の逸話です。古代ローマのこの祭りにカエサルが臨席した際、リキニウスが彼の足元に黄金のディアデムを置きました。民衆はレピドゥスに対し、カエサルに戴冠するよう促します。カエサルがためらうと、今度はカッシウスがカエサルの同意を得ないままディアデムを膝に載せ、最後にはアントニウスがそれを独裁官の頭に乗せて「王」と讃えました。しかしカエサルは王冠を振り払い、「私の名はカエサルであって、王ではない」と民衆に告げ、その王冠をユピテル神像の頭に載せるよう命じたのです。

暗殺計画 ― 3月15日「イドゥス・マルティエ」

紀元前44年、カエサルはマルクス・アントニウスを執政官(コンスル)に任命しました。しかしこの人事はカッシウスの反感を買い、彼はカエサルが独裁政治のもとで作り上げてきた敵たちを次々と探し当て、他の反カエサル派の人々とともに殺害計画を進めていきました。こうして実行に移されたのが、紀元前44年3月15日、いわゆる「3月15日(イドゥス・マルティエ)」の暗殺事件です。

暗殺を予感させた数々の凶兆

伝承によれば、カエサル暗殺の前にはいくつもの不吉な兆しが現れていたといいます。夜ごと奇妙な物音が聞こえ、犠牲獣を捧げる儀式では、カエサルは屠った獣の心臓を見つけ出すことができませんでした。これは凶事の前触れとされました。

また伝説では、事件の前夜、妻カルプルニアは死んだ夫を抱きしめる夢を見たといわれます。カエサル自身もまた、雲に囲まれながらユピテルとともに天に昇る夢を見ました。

しかし何よりも衝撃的だったのは、カプアの創建者カピュスの墓碑に刻まれた碑文でした。
「カピュスの骨が発見されるとき、ウルス(アイネイアースの子アスカニウス)の子孫が肉親の手によって殺され、たちまち大きな虐殺とイタリア全土の嘆きによってその復讐が果たされるだろう」
この「子孫」とは、ほかならぬカエサルその人だったのです。

カエサルの死はローマ共和政の終わりを決定づけ、やがて養子オクタウィアヌス(初代皇帝アウグストゥス)による帝政ローマの幕開けへとつながっていきました。