1941年、労働運動指導者であり公民権活動家でもあったA・フィリップ・ランドルフは、首都ワシントンD.C.へ向けた大規模な行進の計画を発表しました。この計画は、後に「ワシントン行進運動(March on Washington Movement)」として知られることになります。では、彼はなぜこの大胆な行動に出ようとしたのでしょうか。主な理由を詳しく見ていきましょう。
1. アフリカ系アメリカ人の雇用と平等な権利の確保
第二次世界大戦中、アフリカ系アメリカ人は広範囲にわたる差別と人種隔離(ジム・クロウ制度)に直面していました。戦争遂行に多大な貢献を果たしながらも、防衛産業や政府機関では平等な雇用機会を否定され、就職の選択肢は極めて限られていたのです。ランドルフは、戦時下の経済ブームから黒人労働者が取り残される現状を打破することを、行進の最大の目的の一つに掲げました。
2. ルーズベルト政権の消極的な対応への抗議
フランクリン・D・ルーズベルト大統領が人種的不平等の問題に対して極めて消極的であることに、ランドルフは強い苛立ちを覚えていました。彼は、首都での大規模な行進こそが全国の注目をアフリカ系アメリカ人の苦境に集め、連邦政府に具体的な行動を強いる最も効果的な手段だと確信していました。実際、この行進計画への圧力を受けて、ルーズベルト大統領は1941年6月に大統領令8802号を発布し、防衛産業における人種差別を禁止する「公正雇用実施委員会(FEPC)」を設置することになりました。
3. 高まり続ける市民権運動の影響
当時、人種隔離法や差別的な法律に異議を唱える市民権運動は、着実に勢いを増していました。ランドルフは、この行進を単なる一過性の抗議ではなく、市民権の議題を前進させるための触媒として位置づけようとしました。後の1963年の「ワシントン大行進」(キング牧師の有名な演説が行われた集会)にも思想的につながる、重要な足掛かりとなったのです。
4. 変革の手段としての経済的圧力
ランドルフは、変革を実現するためには経済的圧力が極めて有効であることを理解していました。首都ワシントンD.C.で数十万人規模の行進が実施されれば、国家の中枢機能に深刻な混乱が生じ、重大な経済的・政治的影響をもたらします。政府が黒人コミュニティの要求を真剣に受け止めざるを得ない状況を作り出す——これこそが、彼の戦略の中核だったのです。
結局、大統領令8802号の発布により、1941年の行進自体は中止されました。しかし、この運動は非暴力による大衆的圧力の有効性を実証し、その後の公民権運動全体に大きな影響を与えました。ランドルフの構想は、アメリカ史上における平和的な社会変革のモデルとして今も評価されています。