プルマン・ストライキ(Pullman Strike)は、1894年5月11日から7月中旬にかけてアメリカ合衆国全土に波及した大規模な労働争議です。鉄道車両メーカー「プルマン・パレス・カー・カンパニー」の労働者たちが賃金引き下げに抗議してストライキを開始し、やがて全国の鉄道網を巻き込む国家的危機へと発展しました。アメリカ労働運動史上、最も重要かつ激しい争議の一つとされています。
ストライキの主な原因
1. 不況下の賃金引き下げ
1893年に始まった深刻な経済恐慌の中で、プルマン社は従業員の賃金を大幅に引き下げました。しかし、家賃や商品の価格は据え置かれたままだったため、労働者の生活は一気に逼迫しました。もともと貧しい暮らしをしていた労働者にとって、この減給は到底受け入れられるものではありませんでした。
2. 悪劣な労働環境
プルマン工場の労働者は、有毒な化学物質にさらされる危険で不衛生な環境のもと、休憩もほとんどないまま長時間労働を強いられていました。
3. 「会社町」という支配的な生活体制
プルマン社はシカゴ郊外に工場と住宅地を兼ねた「会社町(カンパニー・タウン)」を建設していました。労働者は会社所有の住宅に住み、会社経営の店舗で買い物をし、会社の学校に通うことを事実上義務付けられていました。会社が生活のあらゆる面を支配するこの体制は住民に大きな不満を抱かせ、減給されても家賃が下がらないことで生活苦はさらに深刻化しました。
4. 労働組合への敵対
プルマン社は労働組合に強く敵対し、労働者が組織を作ることを妨害してきました。こうした抑圧が、労働者の不満を一層募らせました。
ストライキの拡大と政府の介入
これらの要因が積み重なる中、1894年に会社が再び賃金を引き下げたことが引き金となり、労働者たちはついにストライキに踏み切りました。争議にはユージン・V・デブス率いる「アメリカ鉄道組合(ARU)」が加わり、プルマン製車両を連結した列車への扱い拒否が全国に広がりました。その結果、鉄道輸送が麻痺し、郵便配達にも支障が出るほどの国家的危機へと発展しました。
ここに至り連邦政府は介入を決定します。グローバー・クリーブランド大統領は連邦軍をシカゴに派遣してストライキの鎮圧に当たり、司法当局はシャーマン反トラスト法を根拠に介入を正当化しました。この過程で暴力的な衝突が発生し、犠牲者が出るなど、アメリカ史上最も激しい労働争議の一つとなったのです。
ストライキの結果と歴史的影響
結局、ストライキは政府と経営側の圧力によって鎮圧され、敗北に終わりました。指導者のデブスは投獄され、ARUも解散に追い込まれました。
しかし、この争議はアメリカの労働運動に多大な影響を残しました。労働者の過酷な実態に対する世論の関心を大きく高め、労働法制の整備を後押しすることになったのです。クリーブランド政権は国民の和解の象徴として「レイバー・デー(勤労者の日)」を連邦の祝日に制定し、これは現在まで続いています。また、後の1914年には労働者の団結権を保護するクレイトン反トラスト法が成立するなど、労働者の権利を守る法整備が少しずつ前進していきました。