逃亡奴隷が「地下鉄道」で捕まったとき、何が起こったのか?
19世紀のアメリカにおいて、奴隷制から逃れるために「地下鉄道(アンダーグラウンド・レイルロード)」と呼ばれる秘密の脱出ネットワークを利用した逃亡奴隷は数多く存在しました。しかし、この危険な旅の途中で捕まってしまった場合、彼らを待ち受けていたのは過酷な運命でした。
捕まった逃亡奴隷が直面した処罰
逃亡奴隷が捕縛された場合、最も一般的だったのは所有者のもとへ強制的に送り返されることでした。特に1850年の逃亡奴隷法(Fugitive Slave Act)により、自由州に逃げ込んだ者でさえ連邦政府の権限で拘束され、南部の所有者に引き渡されることが法的に認められていました。
送り返された後の処罰は容赦のないものでした。鞭打ちなどの身体的な暴行は日常的に行われ、他の奴隷への見せしめとして、さらに残酷な仕打ちを受けることもありました。場合によっては命を落とす者さえいました。
さらなる苦難:転売と投獄
処罰の一環として、逃亡を試みた奴隷がより過酷な労働環境として知られる深南部(ディープサウス)のプランテーションへ売り払われるケースも少なくありませんでした。家族や仲間との永遠の別離を意味するこの措置は、肉体的な苦痛以上に精神的な打撃となりました。
また、一時的に投獄される場合もありました。当時の刑務所の環境は極めて劣悪で、釈放された後も結局は元の所有者のもとへ戻されるのが常でした。
常に付きまとう捕獲のリスク
「地下鉄道」は決して安全な手段ではありませんでした。プロの追跡者(スレイブ・キャッチャー)や賞金目当ての密告者が常に暗躍しており、秘密裏に運営されていたにもかかわらず、発覚して捕まるリスクは常につきまといました。
それでも、多くの人々が自由を求めてこの危険な旅に身を投じました。ハリエット・タブマンをはじめとする案内人たちの勇気と犠牲は、アメリカの歴史における重要な一章として、今日まで語り継がれています。