第21王朝から第25王朝:エジプトの緩やかな衰退

「後期時代」と呼ばれるこの時期、ファラオたちのエジプトは緩やかな衰退への道を歩み始めます。国家の発展が世界の他の地域に比べてあまりにも遅れていたためです。エジプト人は変化する環境への適応に苦しみ、近隣諸国に押され、やがて支配される立場となっていきました。
ファラオは民衆にとって絶大な正統性を持つ存在でした。そのため、外国勢力の王子や神官たちは、絶対的な権力を手に入れるために自らファラオとして即位するようになります。異民族の影響下でエジプト美術は退化して粗雑なものとなり、無秩序状態や内戦も発生しました。
紀元前1070年頃
スメンデスがファラオに即位
出自の定かではないファラオ・スメンデスは、タニスの都市を拠点としてエジプト北部の支配権を握りました。一方、国土の南部はテーベのアメン神殿の大神官たちが支配します。彼らは自らを王と宣言し、広大な土地と富を蓄積することで権力を拡大していきました。その間、リビア人の首長や王子たちは次第に自治権を強めていきます。
紀元前945年~924年頃(マネトの記録による)

エジプトはリビア人の支配下へ
リビア人の首長や王子たちがデルタ西部の北側を制圧しました。当初はベルベル系リビアの王子であったシェションク1世がファラオとなり権力を掌握します。彼はカナンに2~3年滞在していたとも言われ、聖書に登場する「セサク」または「シシャク」の人物であると考えられています。こうして打ち立てられたいわゆる「リビア王朝」は、約200年間続くことになりました。
さらにシェションク1世は、一族の者を聖職者の要職に据えることで、南部エジプトの支配も確立しました。
しかしリビア人の勢力は、レオンティノポリスにライバル王朝が現れ、南からはクシュ人が脅かすようになると次第に衰えていきます。クシュ人はギリシャ人から「エチオピア人」と呼ばれた民族で、2000年以上にわたりエジプトと対立してきた歴史を持っています。
紀元前727年頃
クシュ人によるエジプト侵攻
クシュ人はまずテーベを制圧し、次いで北部エジプトへ侵攻し、最終的にはデルタ地帯までを支配下に置きました。
紀元前700年~667年頃
アッシリア人が権力を掌握
アッシリア人はテーベとその大神殿群を略奪しました。さらにメンフィスを占領し、クシュ人をヌビアへと撃退します。このアッシリアの侵略は、エジプト人の心に深い傷を残すこととなりました。
第26王朝から第30王朝

後期時代は、異邦の君主による相次ぐ権力掌握と、その合間に訪れる短い独立の時期によって特徴づけられる、極めて不安定な時代でした。とはいえ、まったく異なる文化を持つ外来の支配者たちも、エジプトの統治モデルに適応し、その文化を尊重しました。独立を取り戻した時期には、エジプト人は経済、文化、芸術、学問、宗教の各分野において、短くも力強い復興を経験したのです。
紀元前653年
リビア人がアッシリアをエジプトから追放
アッシリア帝国はあまりにも巨大になりすぎて統治しきれなくなり、各地の反乱が帝国を内側から引き裂き始めます。これがリビア出身のサイス王朝(サイテ朝)の台頭を促しました。リビア王プサメティコス1世は、ギリシャ人傭兵の助力を得てアッシリア勢力をエジプトから駆逐したのです。
紀元前525年
ペルシア人の侵略
強大なペルシア軍を率いたカンビュセス2世がエジプトを征服し、ペルシウムの戦いでファラオ・プサメティコス3世を捕らえました。カンビュセス2世は正式にファラオの称号を名乗りますが、実際には故郷のスーサから統治を行い、エジプトはサトラップ(ペルシア帝国の行政区分)の管轄下に置かれました。ペルシアに対する反乱の中には成功したものもありましたが、エジプト人は彼らを恒久的に打倒することはできませんでした。
紀元前404年~398年

エジプト人ファラオ・アミュルタイオスの治世
彼は国の主導権を握り、一時的にペルシア勢力を駆逐することに成功しました。しかしその後の王朝は、実権を持たないエジプト人政権の寄せ集めにすぎませんでした。
紀元前360年~343年頃
エジプト人ファラオ・ネクタネボ2世の治世
彼は、エジプト史上最後の独立したエジプト人支配者となった人物です。
古代のペルシア、アッシリア、そして中東の歴史について、さらに学んでみましょう。