アフリカの歴史

マゼランはラプラプとの戦いに5隻の船で挑んだのか?マクタン島の戦いの真実

「マゼランがラプラプと共に戦った」というのはよくある誤解です。実際には、フェルディナンド・マゼランは1521年のマクタン島の戦いにおいて、首長ラプラプ率いる現地の戦士たちによって討ち取られました。この記事では、マゼラン艦隊を構成した5隻の船と、大航海時代の歴史を変えたこの戦いについて詳しく解説します。

マゼラン艦隊を構成した5隻の船

1519年9月、マゼランはスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の支援を受け、西回りの香料航路開拓を目指してセビリアを出港しました。艦隊は以下の5隻で構成されていました。

  • トリニダード号 — 艦隊旗艦。マゼラン自身が乗り込みました。
  • サン・アントニオ号 — 艦隊最大の船。
  • コンセプシオン号 — 中型のキャラック船。
  • ビクトリア号 — 後に世界周航を成し遂げた唯一の船。
  • サンティアゴ号 — 小型の探査用カラベル船。

しかし航海は過酷を極めました。サンティアゴ号は南米パタゴニア沖で遭難し、サン・アントニオ号は反乱の末に途中でスペインへ帰還。フィリピンに到着した時点で、艦隊はわずか3隻に減っていました。

マクタン島の戦いとは

1521年4月27日、マゼランはセブ島の王ラジャ・フマボンとの同盟関係を背景に、キリスト教への改宗を拒んだマクタン島の首長ラプラプへの遠征を指揮しました。ただし、この戦いに投入されたのは約60名のヨーロッパ人兵士と少数の同盟軍のみで、残存する3隻の船が総力を挙げて戦ったわけではありません。

一方、ラプラプ側は推定1,000〜1,500人の戦士を擁していました。数で圧倒的に劣勢だったマゼラン一行は干潮のため船からの砲撃支援も受けられず、浅瀬での白兵戦に追い込まれます。マゼラン自身は槍や刃物による攻撃を受けて戦死し、その遺体はラプラプ側の手に渡ったと伝えられています。

遠征のその後

マゼランの死後、生き残った乗員は損傷したコンセプシオン号を焼却処分し、トリニダード号とビクトリア号の2隻で香料諸島(モルッカ諸島)へ向かいました。トリニダード号は修復中にポルトガル軍に拿捕されましたが、ビクトリア号だけはフアン・セバスティアン・エルカノの指揮のもと、1522年9月にスペインへ帰還。人類史上初の世界一周を成し遂げたのです。

まとめ

「マゼランがラプラプとの戦いに5隻の船を使用した」という説には誤りがあります。艦隊自体は当初5隻で編成されましたが、フィリピン到達時には3隻に減少し、マクタン島の戦いではごく一部の兵力しか投入されませんでした。そして何より重要なのは、マゼランがラプラプと「共に」戦ったのではなく、ラプラプ率いる軍勢との戦いで命を落としたという歴史的事実です。