ガルバとはどのような人物か
セルウィウス・スルピキウス・ガルバ・カエサル・アウグストゥス(Servius Sulpicius Galba Caesar Augustus、紀元前3年12月24日 – 紀元69年1月15日)は、ローマの将軍にして政治家であり、紀元68年から69年までローマ皇帝として統治した人物です。
幼少期と家系
ガルバは紀元前3年12月24日、ヒスパニア・キテリオル(現在のスペイン北東部)のタラコ(現タラゴナ)で、ローマ出身の裕福な貴族の家系に生まれました。
父のガイウス・スルピキウス・ガルバはローマ属州アフリカの総督を務め、母ムンミア・アカイカはルキウス・カルプルニウス・ピソの姉妹でした。
権力への道
青年期のガルバはローマで学び、後の皇帝となるオトやティベリウスらと親交を結んだと伝えられています。20歳を迎えた23年には、終身の鳥卜官(アウグル)に任じられました。
イタリア、ヒスパニア(現在のスペイン)、ガリア(現在のフランスおよびベルギー)での軍務を積んだ後、皇帝ティベリウスに見出され、33年に執政官(コンスル)に就任します。
続いて37年から39年頃にかけて上ゲルマニア総督を約2年間務めました。この時期、ローマ支配に反抗したガリア人の反乱を鎮圧した功績により、皇帝カリグラの信頼を獲得するとともに、ローマの元老院議員たちの間でも名声を高めることになりました。
後半の経歴
ガルバはその後も帝国各地の要職で成功を重ねていきます。46年の執政官候補(コンスル・デザイナトゥス)、45年から46年にはアフリカ属州(アフリカ・プロコンスラリス)の総督、さらに49年から52年頃にはアカイア(ギリシャ)における特別な指揮権を担いました。
しかし皇帝ネロの時代に入ると、ネロがガルバを脅威であり政敵であるとみなすようになり、両者の関係は悪化しました。ガルバは公職から退き、スペインにある田舎の邸宅で隠棲生活を送ることになります。
四皇帝の年(68〜69年)
68年、ネロは度重なる失策、反乱、陰謀によって人望を急速に失っていました。こうした情勢の中で、ガルバの高い名声は、元老院議員や有力市民にとって理想的な代替候補と映りました。特に、ライン川沿いに駐屯する4個の皇帝直属軍団のうち3つを率いる総督(レガトゥス)たち——ガリア・ルグドゥネンシスのガイウス・ユリウス・ウィンデックス、ヒスパニア・タッラコネンシスのマルクス・サルウィウス・オト、上ゲルマニアのルキウス・ウェルギニウス・ルフス——が彼を支持しました。
当時73歳だったガルバは、「元老院とローマ民衆の代理人(Legatus Senatus Populique Romani)」という称号を受諾しました。ここに内乱、いわゆる「四皇帝の年」が幕を開けます。
ガルバがヒスパニアへ進軍する間、後に帝位を争うことになるウェルギニウス・ルフスは、ガルバを大きく上回る兵力を擁していました。一方のオトは、ガルバ政権での承認に加え、ガルバの若い養子で後継者に指名されていたルキウス・カルプルニウス・ピソ・リキニアヌスとの婚姻の約束を取り付け、ガルバの陣営に加わりました。
6月8日、ウェルギニウスの軍勢はウィンデックスの軍とウェソンティオ(現ブザンソン)付近で衝突しました。しかしウィンデックス自身が死亡すると、ルフスの軍団は戦闘の続行ではなくガルバへの忠誠を誓い、これによってガルバは唯一の帝位候補として確定しました。ネロは自ら命を絶ち、ガルバは北アフリカを除く帝国のほぼ全土で皇帝として承認されたのです。
暗殺と遺産
ガルバは10月にオトを伴ってローマ入りし、軍規の立て直しや経済・政治改革の計画を掲げました。しかし即位からわずか7ヶ月後の69年1月15日、前夜を過ごしたパラティウム(宮殿)からフォルムへ向かう途中——当日から始まる執政官としての任務に就くため、儀礼の一環として移動していた最中——近衛兵(プラエトリアニ)2名によって街道上で殺害されました。
オトの影響下にあった近衛兵たちは、他の部隊を買収や強制によって味方につけ、ガルバが暗殺されたその同じ時間に元老院へ請願を行い、オトを新皇帝として宣言しました。
ガルバの治世は極めて短いものでしたが、ユリウス=クラウディウス朝の終焉と内乱時代の幕開けを象徴する存在として、ローマ史に確かな足跡を残しています。