佐々木禎子(ささき・さだこ、1943年1月7日~1955年10月25日)は、広島への原子爆弾投下から約10年後に白血病を発症した日本の少女です。彼女は原爆の悲劇を伝える存在であると同時に、平和への願い、そして核兵器のない世界への希望の象徴として、今も世界中の人々の心に刻まれています。
『サダコと千羽鶴』で世界へ広まった物語
禎子さんの物語は、エレナ・コーア(Eleanor Coerr)による児童書『Sadako and the Thousand Paper Cranes』(邦題:『サダコと千羽鶴』)を通じて世界的に知られるようになりました。この作品は戯曲や映画、絵本などさまざまな形で翻案され、多くの国で読み継がれています。
幼い日に経験した被爆
禎子さんは1943年、広島に生まれました。1945年8月6日、アメリカ軍が広島に原子爆弾を投下したとき、彼女はまだ2歳でした。自宅は爆心地から約1.6キロの場所にあり、禎子さんはそこで被爆しましたが、幸い外傷はありませんでした。しかしこのとき浴びた放射線が、後年の病気につながったと考えられています。
12歳での白血病発症
1954年末頃から体調に異変が現れ、翌1955年2月、禎子さんは白血病と診断されました。これは血液と骨髄を冒す病気で、当時は原爆症の一つとして恐れられていました。医師から厳しい見通しを告げられた禎子さんは、広島赤十字病院に入院し、闘病生活を送ることになりました。
千羽鶴との闘病
入院中、禎子さんは「千羽鶴を折ると願いがかなう」という日本の古い言い伝えを耳にします。「一日も早く治りますように」という願いを込めて、薬の包み紙や友人が届けてくれる色紙を使い、鶴を折り続けました。目標の千羽を超えても折り続けたといわれ、実際に折られた鶴の一部は現在も広島平和記念資料館に保存・展示されています。
短い生涯の終わり
しかし病状は回復することなく、禎子さんは1955年10月25日、12歳という短い生涯を閉じました。家族や友人、級友たちに見守られての最期でした。
平和のシンボルとして受け継がれる願い
禎子さんの死後、級友たちは「原爆で亡くなったすべての子どもたちのための慰霊碑を作ろう」と呼びかけました。この運動は全国に広がり、寄付と折り鶴が集まって、1958年に広島平和記念公園へ「原爆の子の像」が建立されました。その頂点には、千羽鶴を手にした禎子さんの銅像が立っています。
今日でも、広島平和記念公園には毎年世界中から数百万羽もの折り鶴が届けられます。禎子さんの物語は、原爆の悲惨さを風化させず、核兵器の廃絶と恒久平和を願う人々の心を、世代を超えてつなぎ続けているのです。