上杉謙信、信玄本陣へ突撃
川中島の戦いにまつわる逸話として最も広く知られているのが、いわゆる「一騎打ち」である。それによれば、戦況が自軍に不利だと悟った上杉謙信は、宿敵・武田信玄をこの一撃のもとに討ち取るべく、すべてを賭けて単騎、武田本陣へと突撃したという。絶体絶命の窮地に立たされた謙信が、馬を飛ばして敵将の首を目指したのである。
謙信が本陣に踏み込んだとき、そこには床几(しょうぎ)に腰掛けた武田信玄の姿があった。信玄は太刀を抜く余裕もなく、手にしていたのは軍配ただひとつ。これを楯にして身を守るほかなかったと伝えられる。

謙信は三尺(約90cm)の太刀を振りかざし、信玄の頭上目がけて斬り下ろした。信玄はとっさに軍配でこれを受け止めたが、間一髪の危機であった。そこへ武田家臣の旗本・原大隅(はらおおすみ)が駆けつけ、槍を手に猛然と謙信へ襲いかかる。槍は鎧の背後から謙信の肩に突き刺さった。
謙信は即座に反撃に転じ、太刀で大隅の槍を受け流す。するとその拍子に太刀は馬の尻に強く叩きつけられ、驚いた馬は前脚を高く跳ね上げると、騎乗する謙信を乗せたまま駆け出した。さらに多くの武田兵が現場に駆けつけたころには、謙信はすでに自軍の陣列へと帰還していたという。
後日、信玄の軍配には八つの刃痕が残されているのが確認された。また史料によっては、信玄はこの襲撃で腕に二箇所の傷を負ったとも伝えられる。これが一般に語られてきた「一騎打ち」の顛末であるが、他の単独の逸話と同様、数多くの疑問点や異なる版本が存在する。
史料にみる「一騎打ち」
『武田三代軍記』には、「一騎打ち」の別バージョンが収められている。それによれば、原大隅は持り槍(もちやり)で謙信に突きかかり、彼を馬から打ち落とした。しかし上杉方の家臣がただちに救援に駆けつけ、自分の馬を譲り渡したため、謙信は武田信玄の陣営から犀川まで馬で脱出することができたという。
一方、『上杉家御年譜』からは、また別の版本を読み取ることができる。同書によれば、信玄本陣に太刀を振りかざして斬り込んだのは、謙信の旗本・荒川長実(あらかわながざね)であったという。信玄は自らの太刀に手を伸ばす暇もなく、軍配を振るって攻撃を防いだ。やがて信玄の旗本たちが救援に駆けつけ、襲撃者は撤退を余儀なくされた。長実はその日のうちに死去したとされるが、信玄襲撃の時点での戦死なのか、その後の戦闘でのことなのかは定かではない。

「一騎打ち」をめぐる諸史料の中で最も興味深いのは、近衛前久(このえさきひさ、1536~1612)が1561年10月5日付で認めた書状である。後に謙信と親交を結び、関東にも足を運んだことでも知られるこの公家は、謙信宛ての手紙の中で、晴信(信玄)を破った勝利を称えるとともに、合戦において自ら太刀を執って戦ったことを讃えている。残念ながら、誰と渡り合ったのかについては触れられていない。この曖昧さこそが、後世の物語や伝説――両大将による一対一の決闘であったとする話――を生む土壌となったのかもしれない。
前久がこの書状をしたためたのは、おそらくそれに先立って謙信自身から届いた書状を受け取ったためだろうが、その理由は定かではない。実際、この時代には同盟国や友人、行政の要人たちに様々な件について報告を行うのが通例であり、川中島のような大勝利は、まさに報告に値する重大な出来事であった。
前久は書状の中で、謙信の名はその武勇と大勝利によって天下に轟くだろうと述べている。さらに、小田原の北条氏康が武蔵・松山城を攻めているので、一刻も早く関東へ赴いてほしいと求めている。
現代における「一騎打ち」の再検証
この「一騎打ち」の逸話は、無数の書籍で描かれ、数え切れないほどの錦絵――とりわけ19世紀の浮世絵――や、今日に至るまでのさまざまな芸術作品の題材となってきた。しかしながら、この話を裏付ける同時代の史料は存在しない。そのため、多くの日本の歴史学者たちはこの逸話の真実性に懐疑的であり、後世の創作ではないかと考えている。
たとえば、人が出家して僧衣をまとる際には、慣習として頭を剃り、行人頭巾(ぎょうにんずきん)と呼ばれる僧帽を着用した。これはしばしば兜の代わりに用いられた頭巾である。ここで問うべきは、謙信が早くも1561年の時点で、肖像画などに見られるような白い僧衣の頭巾を着けていたのかどうかである。謙信が正式に出家したのは1570年のことであり、少なくとも公式にはそうである以上、これは年代的な矛盾を抱えた描写と言わざるを得ない。――出家後に名乗った「謙信」の名が初めて確認できるのは、1570年12月13日付の書状においてである。
いずれにせよ、「一騎打ち」という場面そのものが起きなかったと断言することはできない。ただし、信玄の陣幕に斬り込んだのが謙信本人ではなく、別の誰かであった可能性は十分にある。それは、いわゆる「影武者」であったかもしれない。