アジアの歴史

シルクロードと飛鳥文化――仏教と珍品がもたらされた東西交流の道

シルクロードとは、現在の中国・新疆ウイグル自治区を東西に横断する交易路のことです。中国側の起点は長安、ヨーロッパ側の終点はローマとされることが一般的ですが、実はシルクロード自体は特定の国が管理していた道路ではないため、どこから始まりどこで終わるのかを厳密に定めるのは難しいのが実情です。

ただし、唐代における東西交通路の東端は日本と認識されており、シルクロードの東の果ては飛鳥京や平城京だったと考えられています。

当時の日本は、中国をお手本として文化や文物を積極的に取り入れていました。そのため、中国文化を学ぶべく遣隋使・遣唐使がたびたび派遣されました。その回数は、607年から894年までの約290年の長きにわたり、20回以上に及びます。

飛鳥文化の特徴と仏教伝来

飛鳥文化は、飛鳥時代に花開いた文化であり、仏教を中心とした文化であることが最大の特徴です。

では、この時代に最も重要視されていた「仏教」や、飛鳥文化を代表する品々は、どのようにして日本にもたらされたのでしょうか。

遣隋使・遣唐使として過酷な海の旅に挑んだ留学生たちのうち、1,000人以上が命を落としたともいわれています。そんな危険な航海を乗り越え、日本の若者たちは中国の知恵や文化、品々を天皇のもとへ持ち帰ったのです。

756年に聖武天皇が崩御した際、光明皇后は、天皇ゆかりのシルクロードや唐王朝由来の品々600点余りを東大寺に献納しました。これらは後に正倉院へ収められ、1,200年以上の時を超えて今日まで伝えられています。

また、6世紀後半から7世紀前半頃の日本では、豪族の権威を支えるものが古墳から寺院の建立へと移り変わっていきました。そもそも古墳が造られた理由については、掘削部分が貯水池の役割を果たし、田んぼを作るためだったという説もあります。

さらに、仏教の受容と寺院の建立は軍事拠点や天皇の宮殿の代わりにもなり得るため、当時の国際情勢を踏まえた公共事業としての側面が見え隠れすると考えられています。

加えて、「古墳や寺を建てるために何人の人を動員できるのか」「技術はあるのか」という点は、国内の反乱勢力や周辺の豪族に対して力を誇示するうえで欠かせない要素でした。また、大国との交流を通じて最新の情報を得ていること、希少な品を入手するためのルートや交渉力を持っていることを示すことは、反乱などを抑止する効果ももたらしたと考えられます。

※中には、コレクター心をくすぐられて収集した人もいたのでしょう……。

このように考えれば、他国の珍しい品を集めるのはごく自然なことです。そして、この時代に日本へもたらされた珍品や仏教が辿ったルートこそが、まさしくシルクロードだったのです。

シルクロードが結んだ東西の文明

シルクロードといえば、西はローマ、中継地点に中東、東は中国というイメージを持つ人が多いでしょう。中東はメソポタミア文明発祥の地であり、もともと緑豊かな恵みの大地でした。しかし、灌漑・排水システムの破壊と再建の繰り返しや気候変動の影響により、耕地に塩分が蓄積して塩害が進行し、次第に砂漠化していったのです。

中東では226年にサーサーン朝ペルシアが建国されました。この帝国は、交易の要衝であり、旅の途中に絶対的に必要なオアシス同士を結ぶ街道(当時の交易ではペルシア領内を通過する必要がありました)を支配下に置きます。そして、西のローマ、東の中国やインドとも盛んに交流を行いました。

ここで、東西の世界が少しずつつながってきたことが見えてきますね。

仏教は紀元前5世紀頃にインドで起こり、紀元前3世紀以降はシルクロードやインド洋を通じて東南アジア諸国、中国、朝鮮半島へと広まり、最後には日本へと伝わりました。インドでは本土の美術様式に加え、ギリシャ、シリア、ペルシアなどの西方美術様式を取り入れたガンダーラ美術が発展しました。中国でも南北朝時代には、それぞれ北魏様式や南梁様式の仏像が作られ、これらにも古代ギリシャ美術の影響が見られます。

日本の飛鳥文化に属する仏教関連の建築物や工芸品には、ローマ、サーサーン朝、ヘレニズム文明(オリエント文明+ギリシャ文明)、中国の南北朝、そしてインドからの影響が確認できます。つまり、これら多様な文明の影響がシルクロードを通じて日本にまで届いていたことがわかるのです。

※ヘレニズム文明誕生の背景には、バルカン半島中部に興ったマケドニア王アレクサンドロスの存在があります。東西世界の融合を目指したアレクサンドロスは、短期間で広大な地域を征服し、遠征の途上で70以上の都市を建設して多くのギリシャ人を移住させました。その結果、オリエント文明圏にギリシャ文明が広く浸透することになったのです。なお、オリエント地域とは一般に、現在のイラン、イラク、シリア、トルコ、レバノン、ヨルダン、イスラエル、サウジアラビア、エジプトなどにまたがる一帯を指します。

このシルクロードの交易に積極的に関わった民族の中には、突厥(とっけつ)もいました。突厥は隋の分裂工作によって東西に分断され、中央アジアの覇者の座から転落した民族でもあります。聖徳太子によるあの先進的な外交政策の背景には、こうした国際情勢への鋭い洞察があったのかもしれません。

そう考えてみると、当時の東西交流のあり方は、グローバル化した現代の姿と驚くほど重なるように思えます。