アジアの歴史

古事記・日本書紀はどこまで信頼できる?「記紀」の成り立ちと信頼性を検証

飛鳥時代について書くとき、主な史料となるのはほぼ『古事記』と『日本書紀』です。とはいえ、この二つは後世の人々が独自に編纂したものであるため、すべてを鵜呑みにしてよいのかと疑問に思うところですが、実際には他に代表となる史書が少なく、どうしてもこの二つに頼らざるを得ません。

『古事記』と『日本書紀』を合わせて「記紀(きき)」と呼びますが、今回はそれぞれの特徴や、記紀が編纂された時期・編者・目的を整理したうえで、「果たして本当に信頼できるのか」という点を検証していきます。

『古事記』と『日本書紀』の特徴の違い

書名古事記日本書紀
成立時期天武天皇即位直後(40歳代?)に構想(即位=673年)
↓
712年(和銅5年)完成
681年(天武10年)編纂開始
↓
720年(養老4年)完成
目的天皇のための私的歴史書=対内的?天皇と朝廷のための公式記録=対外的?
表記日本語の音を生かした漢字表記=和風漢文体中国風(漢文)
性格物語的な歴史中国風の正史
記載期間天地初発~推古天皇天地初発~持統天皇
編纂に関わった人物天武天皇の勅命により稗田阿礼(ひえだのあれ)が、宮廷や各氏族に伝わる「帝紀」「旧辞」を誦習(しょうじゅう)。
⇒ 一度、天武天皇の死去により中断。
第43代元明天皇が太安万侶(おおのやすまろ)に命じて筆録。
天武天皇が川島皇子らに「帝紀及び上古諸事」を記定するよう命じ、のちに舎人親王が撰修の責任者に。
⇒ 中断ののち、三宅清人や藤原不比等(ふじわらのふひと)が加わり、第44代元正天皇に『日本書紀』を献上。
編纂作業のピーク天武朝期(673~686年)養老年間(717~723年)
編纂時期の差が与えた影響天武王朝の思想や考え方が随所に見られる(大友皇子や物部氏の活躍など)儒教を中心としつつ、藤原氏が支える奈良時代の貴族政治の正当性が含まれる(中大兄皇子と中臣鎌足)
その他● 大国主大神を中心とした出雲の神話に重点
● 氏族の系譜についても触れている
● 中国思想からの影響
● 天皇の支配の正当性を主張

* 帝紀=「天皇の日継」=歴代天皇または王家の系譜
* 旧辞=「先代の旧辞(ふることば)」=王室に伝わる伝承や物語
* 本辞=旧辞とほぼ同じ内容を指すと考えられる
* 編纂中断の理由=大津事件(大津皇子の変)などにより政情が不安定だったため

なぜ記紀は編纂されたのか?

記紀はいずれも天武天皇のもとで編纂が始まった書物です。

天武天皇(元・大海人皇子)といえば、第38代天智天皇の弟にあたります。天智天皇は長年、評判も地位も高い弟・大海人皇子を後継者と考えていましたが、晩年には大友皇子を推すようになります。これを受けて、大海人皇子は吉野行きを決意しました。

671年に天智天皇が46歳で亡くなると、後を継いだ大友皇子(弘文天皇)は経験不足から朝廷をうまくまとめられない状況に陥ります。そこへ「弘文天皇が吉野(大海人皇子)への出兵を計画している」という情報が流れ、壬申の乱へと発展。国は大きく揺れ動きました。白村江の戦いでの敗北から9年が経過した頃のことです。

儀礼体制の整備がようやく進みつつあった段階でもあり、壬申の乱の末に即位した天武天皇にとって、国内における地位や国家体制はまだ盤石ではなかったと考えられます。また、対外戦争から日が浅いことも踏まえれば、東アジアにおける地位も固まっていなかったと言えるでしょう。

さらに、『日本書紀』には様々な書名が原典として記されており、その中には「天皇記」「国記」などが含まれます。しかしそれらの原典を失う「ある事件」が起きています。それは乙巳(きのとのみ)の変のこと。この事件で蘇我氏の邸宅が炎上し、多くの歴史書も焼失・散逸してしまいました。

内外ともに混乱の時期であったからこそ、国家と自らの皇位の正当性を示すべく、国の正史である記紀が編纂されることになったと考えられます。

* 史書編纂事業が最初に言及されるのは推古朝です。遣隋使の派遣以降、天皇を中心とする中央集権的な国家づくりを目指していた時代であり、史書の編纂は独立国家としての地位を確立するための手段だったと想像できます。

その後、記紀を含めて計3回の史書編纂が行われていますが、いずれも大帝国(中国)と接触する中で国家観が揺さぶられた時期です。帝紀は推古朝以前にまとめられましたが、これはちょうど王朝交代の頃にあたります。系譜のみだったのか?旧辞と一体だったのか?古事記の一部だったのか?といった諸説があり、はっきりしません。いずれにせよ、国家の情勢が不安定な時期であったことは共通しています。

記紀の元になった史料はどのくらい信頼できるのか?

ここからが本題で、『古事記』『日本書紀』の元になった史料である「帝紀」と「旧辞」について見ていきます。

400年代…大王(天皇)の一族がいくつかの王族に分かれる
↓
簡単な系譜が作られる
500年代…第26代継体天皇の一族が優勢になる(=王朝交代)
「帝紀」が作られる
600年代…聖徳太子が国史を作る
↓
帝紀に複数の異伝が発生
(「旧辞」は650年前後に編纂されたとされる)

実は「帝紀」も「旧辞」も現存してはいませんが、当時确实に存在した書物だと考えられています。

また、『日本書紀』はこの2冊以外にも複数の原典があると言われています。

  • ① 王家に伝わる記録(=帝紀・旧辞など)
  • ② 大豪族に伝わる記録
  • ③ 地方の伝承
  • ④ 朝廷の公式記録(=太政官の記録、大宰府による外交記録など)
  • ⑤ 個人の覚書・寺院関連の記録(=伊吉博徳書など)
  • ⑥ 外国の文献(=中国や朝鮮の歴史書など)

このうち最も信頼性が高いのは⑤と⑥です。一方、信頼性が低いのが②です。壬申の乱で半数近くの部族が没落した結果、天武朝の有力部族の多くが新興勢力となったため、「昔から有力だった」と見せかける記述が多くなったとされているのです。

編纂者の都合は反映されていないのか?

結論から言えば、これらの史料には編纂者の都合がほぼ間違いなく含まれていると考えられています。『日本書紀』の大化の改新に関する記述は後世の加筆ではないか?という指摘がその好例です。

編纂が始まった天武天皇は、壬申の乱において前天皇が指名した後継者を否定する形で即位しました。それにもかかわらず、前天皇である天智天皇について否定的な記述はされていません。

天武天皇自身が長年天智天皇を支えてきたこと、天武天皇の后(持統天皇)も天智天皇の娘であること、そしてその下で次第に台頭してきた藤原不比等の父・中臣鎌足が大化の改新に深く関与していたことも、天智天皇を否定的に書かなかった理由だと考えられます。天智天皇を批判すれば、大化の改新の正当性ひいては藤原氏の権威をも損ないかねなかったのです。

なぜ日本書紀と古事記で内容が違うのか?

これは、天武天皇の時点で統一されていなかった神話を、それぞれが独自に整理・体系化したためと考えられます。では、なぜ日本書紀と古事記を統一しなかったのか?という疑問が生じます。

理由としては、前掲の表にある「対内」「対外」の違いによるところが大きいかもしれませんが、別の書籍にあった以下の説も紹介します。

(1)天武天皇は最初に編纂させた古事記に満足できず、681年に改めて編纂し直した。

(2)古事記は天武天皇の個人的な著述として、日本書紀は律令政府の歴史書として編纂された。

* 参考:『記紀はいかにして成立したか――「天」の歴史書と「地」の歴史書』(講談社学術文庫)

(2)には対内・対外の違いがよく当てはまると思います。ただ、いろいろな説があり「これだ」と断言することはできません。

以上のことを踏まえると、記紀はすべての記述が信頼できるわけではなく、信頼できる部分とそうでない部分があるようです。信頼できない部分については少しずつ解明されつつありますが、依然として様々な説・解釈が並立しているのが現状です。

『古事記』『日本書紀』の中では、各方面からアプローチして書かれている分だけ、日本書紀の方が信頼度は高いでしょう。

正直なところ、調べても書籍によって見解が異なることが多く、どの説を採るべきか決めるのは難しいのですが、それも古代史の楽しみの一つだと思います。今日はこの辺で。