アジアの歴史

大化の改新後の政治体制とは?改新の詔の内容と主要人事をわかりやすく解説

これまで、大化の改新そのものの存在に疑問があるという話をしてきましたが、もし実際に大化の改新が行われていたのだとしたら、どのような政治体制がしかれたのでしょうか。今回はそのあたりを少し掘り下げてみたいと思います。

改新の詔(かいしんのみことのり)とは

改新の詔とは、大化の改新において新しい政治の方針を示すために出された詔(みことのり)のことです。その主な内容は、以下の4点にまとめられます。

  1. 公地公民
  2. 地方行政組織の整備
  3. 戸籍の作成
  4. 新しい税制の導入

さらに、品部(しなべ)の廃止も示されました。

※品部とは、古墳時代以降の大和王権のもとで、農民以外の専門技術をもって仕える労働者のことを指します。

645年(乙巳年)、蘇我入鹿が暗殺される乙巳の変(きのとのみのへん)が起こります。それまで在位していた皇極天皇は変の2日後に退位し、翌日には蘇我蝦夷が自害、そして孝徳天皇が即位しました。この譲位は日本史上初めての出来事です。新体制のもとでは皇太子に中大兄皇子が立ち、隋や唐を目にしてきた留学生たちがもたらした先進的な知識のもと、乙巳の変に関わった人物や留学から帰国した僧侶たちが要職を担うことになりました。

大化の改新後に設けられた主な役職

ここで役職の話が出てきたので、それぞれ少し詳しく見ていきましょう。

左大臣・右大臣

従来の大臣(おおみ)・大連(おおむらじ)の廃止に伴って新しく設けられた役職です。日本では基本的に左が上位とされてきました。

※ヨーロッパやアフリカでは右が尊重され、インドやイスラム圏では左手が不浄の手として忌避されます。中国では時代によって考え方が変わりますが、日本が留学生を盛んに派遣していた隋や唐の時代には、左が尊ばれていたようです。

内臣(うちつおみ)

常設の官職ではありませんが、天皇を補佐する役として任じられました。蘇我氏・阿倍氏・大伴氏などに比べて政治的な実績のなかった中臣氏を政権の中枢に据えるために新設されたといわれ、その職務内容は時代によって異なります。

国博士(くにはかせ)

政治の顧問となる役職です。遣隋使として派遣された学者や僧侶が、唐の制度を日本でも取り入れられるように一時的に登用されたもので、のちに各国に一人ずつ置かれるようになりました。

主要ポストに就いた人物たち

孝徳天皇のもと、右大臣に蘇我石川麻呂、左大臣に阿倍内麻呂、内臣に中臣鎌足、国博士に高向玄理(たかむくのくろまろ)と僧旻(みん)が就きました。

蘇我石川麻呂

蘇我氏でありながら、乙巳の変では中大兄皇子や中臣鎌足に協力した人物です。しかし阿倍内麻呂の死後、異母兄弟である蘇我日向が、石川麻呂が中大兄皇子の暗殺を謀っていると讒言(ざんげん)しました。追われる身となった石川麻呂は自害しますが、のちに無実が証明され、日向は筑紫へ流罪となりました。

阿倍内麻呂

阿倍倉梯麻呂と同一人物ではないかといわれています。阿倍氏の祖は、「日本書紀」にいう四道将軍の一人・大彦命とされ、その名(意富比垝=おほびこ)は埼玉県で出土した金錯銘鉄剣にも刻まれていることから、その実在が認められています。

中臣鎌足

乙巳の変において、中大兄皇子とともに中心的な役割を果たした人物です。中臣氏は古来、神事や祭祀をつかさどる氏族であり、政治の表舞台に立つ機会はほとんどありませんでした。そのため仏教受容の際や、物部氏と蘇我氏が対立した際には、中臣氏は物部氏の側についています。

大化の改新を推し進めようとする中大兄皇子の側近として、改革に消極的な蘇我石川麻呂や阿倍内麻呂と対立しました。649年に両者が相次いで死没・失脚すると権力を握り、のちに天智天皇から「藤原」の姓を賜ることになります。

高向玄理(たかむくのくろまろ)

渡来人の系譜を引く氏族の出で、608年の遣隋使の一員として中国に渡り、隋から唐へと国が移り変わる激動の時期を経験しました。640年に新羅経由で帰国した後は国博士となり、僧旻とともに八省百官とよばれる体制の確立に尽力しました。

しかし、長年隋・唐に傾倒してきた高向玄理の政治的立場は、百済を中心とする天智天皇の外交政策とは折り合わず、唐で客死するという皮肉な結末を迎えることになります。

僧旻(みん)

高向玄理らとともに遣隋使に随行した一人です。玄理よりも早く帰国し、私塾を開いて貴族の子弟に先進的な知識や文化を伝え、後継者を育成しました。のちに高向玄理とともに国博士として、八省百官の体制づくりに携わっています。

黒幕と目される人物たち――南淵請安の存在

もちろん、蘇我石川麻呂自害の黒幕は中大兄皇子と中臣鎌足だったのではないかといわれています。さらに注目したいのが、高向玄理や僧旻と同じく遣隋使に随行した南淵請安(みなぶちのしょうあん)という人物です。権力への招聘を受けながら、決して権力の座につくことはありませんでした。

実はこの南淵請安、なんと中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足、二人の師でもあり、儒学を教えていたといわれています。すでに新政権の時代には亡くなっていたとされますが、二人の素質を見抜いていたからこそ、あえて権力の座を固辞したのかもしれません。