アジアの歴史

持統天皇の皇子草壁皇子の死因

草壁皇子の死因 , 以前書いた「長屋王の変遷」の記事にも登場した持統天皇の息子です。について考察を書いていきたいと思います。

草壁皇子の死因

おそらく持統天皇は草壁皇子を即位させたかったために、甥の大津皇子(妹の大田皇女の息子)を謀反の罪で自殺に追い込んだのかもしれません。草壁皇子は大津皇子の交代から2年余り後に亡くなったと一般に信じられている。

一般的には生まれたばかりで亡くなる人も多いため、この時代の平均寿命は非常に短いのですが、奈良時代でも成人の平均寿命は63歳程度だったようです。 ..

草壁皇子はまだ子供ではありませんでしたが、体力が充実した27歳ということで、まだまだ長生きできる状況にありました。何より、子の文武天皇も早世しているため、草壁皇子は病弱であるという説もあり、病死した可能性も考えられます。ただ、皇族が次々と亡くなっていくのは気に入らないので、殺人説に絞っていきます。

草壁皇子が消えて得をする者か、恨みを持った者が犯人か?

まず、疑われることで恩恵を受けてきた人たち。持統天皇の譲位時に皇位継承順位が高かった人物の背後に、犯人のヒントが少しあるかもしれない。

  • 草壁皇子は持統天皇の孫であり草壁皇子の息子であるため除外されます。
  • 長王…天武天皇と大江皇女との間の子
  • 弓削王子 … ナーガ王子の弟
  • 舎人親王 … 天武天皇と新田部皇女

このうち、長王と弓削王は、母である大兄皇女が小姓の出身である雑貨部の品部氏の仲間であり、王位継承という点では。それはあまり重要ではありませんでした。

本命は舎人親王です。 おそらく。

木梨軽皇子 それに比べると若干劣りますが、新田部皇女は安倍氏の生まれであり、草壁皇子が亡くなった時は新田部皇女が7歳、舎人皇子が14歳でしたから、期待はなかったとも言えます。ない。

舎人親王の背後にいる安倍氏は、壬申の乱による高市親王の大津脱出に貢献した人物の一人である。高市皇子との因縁が見え隠れする。高市皇子を天皇とする説もあり、686年からの王政前後には持統天皇との権力闘争があった可能性もある。

どうやら高市皇子は安倍氏や宗像氏、三輪氏と繋がりがあるようですが、一方で持統天皇は母親が蘇我氏にほとんど頼れない状態で、同盟者です。彼を有力な貴族として一人前に育てようとしたのは藤原氏ではないでしょうか?

ともあれ、大津皇子と草壁皇子が睨み合っている間は問題ないが、大津皇子の崩御により持統天皇は権力を集中することになる。・・・高市皇子にとってはかわいそうな状況ではないでしょうか?持統天皇の権力を弱め、一目を置く目的で殺害したと推測される。

しかし、草壁皇子の死後、高市皇子が太政大臣についたのですから、ちょっと無理があります。彼がどのようにして太政大臣になったのかは分かりません。 「壬申の乱のようなことはしないでください」と何らかの取引をしたのかもしれないが、それは想像にすぎない。

次に大津皇子の奇妙で恨めしい人物を見たいのですが…大津皇子に近かった人物を見たいのですが、大津皇子に最も近かったと思われる川島皇子が密告したと言われています。反乱軍の彼とその親族も。両方持ってないんです。兄弟といえば草壁皇子と高市皇子。ここでも高市皇子が出てきたが、前述の通り決定打に欠ける。

自殺説

母親が王位に就くために、母親の妹が産んだ異母兄弟を殺したかもしれない状況で、彼は精神的に追い詰められていたのではなかったのか?

理論です。

概要

今回わかったことは「わかってないことがわかった」「高市皇子が怪しい」など物足りないことばかり。要約ですみません。結局のところ、「天皇だったかもしれない説」という非常に不安定な根拠で推論してきました。

そして、いろいろ考えた結果の個人的な意見としては、「このような出来事が立て続けに起こると、ストレスで免疫力が十分に低下する⇒病気になりやすい=病死する」という考えが考えられます。

とにかく文献や本を読み続けて、新しい情報が入ってきたら考えてみたいと思います(個人的には藤原氏の隆盛を、藤原氏の側からではなく、持統天皇の側から見れたのは収穫でした) 。