アジアの歴史

王政復古の大号令とは?公議政体派と討幕派の攻防が導いた倒幕への道

大政奉還によって政権を朝廷へ返上した徳川慶喜は、表向きは政権を手放したものの、実権は依然として自分の手元にあると考えていました。当時の朝廷には自ら政治を運営する能力はない――そう踏んだ慶喜は、大政奉還後も旧幕府側が主導権を握り続けられると目論んでいたのです。薩摩・長州両藩による武装討幕の動きに対しても、主導権を奪い返す好機を窺っていました。

王政復古の大号令

しかし、慶喜の読みは外れることになります。実は大政奉還とほぼ同じ頃、朝廷から薩摩・長州両藩に対して討幕の密勅が下されていました。この動きを受けた討幕派の公卿・岩倉具視らは、慶喜が再び政権を掌握することを徹底的に防ぐため、明治天皇がみずから権力を行使する体制をつくり上げようと画策します。

そして実行に移されたのが、1867年(慶応3年)12月9日の王政復古の大号令でした。

この大号令では、約700年ぶりに天皇を中心とする新政府の樹立が宣言されると同時に、約260年にわたって続いてきた江戸幕府の正式な廃止が宣言されました。

あわせて将軍職の廃止が決まり、朝廷と西国大名を監視してきた京都守護職および京都所司代も廃止されています。

さらに従来の摂政・関白といった摂関制度も廃止し、総裁・議定・参与からなる三職を置くこととしました。700年ぶりの王政復古にふさわしく、平安・鎌倉時代のような体制へと回帰させ、朝廷の制度を抜本的に見直すことで、天皇みずからが実際に政治を執り行えるようにしたのです。

大政奉還によって「天皇を頂点とする新政府のもとで新しい国家運営を始める」形をつくろうとしていた徳川家でしたが、この大号令によって幕府という政治組織は完全に廃止され、天皇自身が政治を主宰することが宣言されることになりました。

号令後の新政府の動き――小御所会議

大号令が宣言された直後、ただちに三職が召集され、京都御所内の小御所において会議が開かれました。これがいわゆる小御所会議です。

会議の場では、薩摩藩の大久保利通や岩倉具視ら討幕派と、慶喜の処遇を擁護する立場の土佐藩前藩主・山内容堂、越前藩主・松平春嶽、尾張藩前藩主・徳川慶勝ら公議政体派との間で激しい論戦が繰り広げられました。

議題の中心となったのは、前将軍・徳川慶喜の進退問題、すなわち辞官納地の問題です。

大久保利通と岩倉具視ら討幕派は、「慶喜は内大臣を辞任したうえで、領地を朝廷へ返還すべきだ」と主張しました。一方、徳川家関係者を含む公議政体派の山内容堂はこの処分に断固反対します。御所の外で警護に当たっていた西郷隆盛が「短刀一本あれば事足りる」と述べ、容堂の暗殺も辞さない構えを見せたため、出席者の間に緊張が走った――そんな逸話も残されています。

結局、土佐藩の後藤象二郎が山内容堂を説得したことで、最終的には慶喜の内大臣辞任と領地返還(辞官納地)が決定しました。

ところがここで慶喜は、即時実行すれば家中が極度に動揺し、武力衝突につながりかねないとして、処分の猶予を求めます。同時に山内容堂ら公議政体派は、大久保らが外国向けに作成した文書の中の「諸侯会議を設けて国事を議論させる」という一節に着目し、「先の会議は数藩の代表が集まっただけの集まりであって諸侯会議とは言えず、そこでの決定は無効だ」と強硬に主張しました。

山内容堂の主張が通ったことで、改めて新しい会議(諸侯会議)を設置することが決まり、慶喜の辞官納地は事実上骨抜きとなりました。さらに慶喜が新体制の首班に就く話まで浮上しつつあったのです。

焦る薩長と鳥羽・伏見の戦い

この状況に危機感を抱いた薩長両藩は、得意の手段――実力による挑発――に出ます。

薩摩藩の西郷隆盛は浪人たちを集めて江戸市中で放火や略奪といった騒擾を繰り返し、幕府側を挑発しました。これに憤慨した幕府側の兵士は、江戸にある薩摩藩邸を焼き打ちします。こうした混乱の中、幕府内では「薩摩を討伐すべきだ」という主戦論が一気に拡大し、もはや慶喜にも抑えることはできませんでした。

翌1868年(慶応4年)1月、幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで、錦の御旗を掲げた新政府軍と衝突します。官軍であることを示す錦旗の前で「朝敵」と認定された幕府軍は敗北し、慶喜は大坂城から脱出して江戸へと退きました。

慶喜の逃走により、薩長は新政府を完全に掌握することになります。これによって公議政体派は新政府内での発言力を失い、結果として討幕派への転換を余儀なくされたのです。

錦の御旗とは

錦の御旗とは、天皇の軍であることを示す旗のことです。その起源には、後白河法皇が源頼朝に下賜したとされる説や、承久の乱の際に用いられたとする説などがありますが、いずれにしても以来、朝敵を討伐する官軍の象徴として受け継がれてきました。鳥羽・伏見の戦いで新政府軍がこの旗を掲げたことで、幕府側は公式に「朝敵」と認定されることになったのです。