アジアの歴史

北条早雲が育んだ城下町・小田原|下剋上の名君が築いた難攻不落の城

戦国時代といえば「下剋上」。その代表格として知られるのが、一介の浪人から身を起こし、相模一国を支配下に置いた北条早雲(ほうじょうそううん)です。早雲を祖とする後北条氏は五代・約100年にわたって関東に覇を唱え続けました。

同じく下剋上の典型として名高いのが斎藤道三です。道三は無名の身分からスタートし、僧侶や油売りを経験したのち美濃国へ。やがて守護・土岐氏を追い出し、戦国大名へのし上がりました。

ところが、この二人の末路は対照的でした。後北条氏が約100年・五代にわたって栄華を極めたのに対し、道三は実子・義龍との長良川の戦いで討ち死に。その後、美濃は娘婿の織田信長の手に渡り、斎藤氏はあっけなく滅亡してしまうのです。

この差を生んだのは、為政者としての「民政重視」という考え方の違いだと言われています。

旧北条領を受け継いだ徳川家康の悩み

その証拠に、豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされた後、旧領を与えられた徳川家康は、領国の統治にかなりの苦労を強いられたと言われています。領民たちは最後まで北条氏を慕い、なかなか新しい主君を受け入れようとしなかったのです。

中でも「城下町における産業振興と商人保護」の施策は、同時代の戦国大名の中でも群を抜いて優れたものでした。

北条早雲が築いた小田原の城下町

初代・北条早雲は、小田原城を拠点として本格的な町づくりに着手しました。

まず設置したのが町奉行所です。驚くことに奉行には武士ではなく、商人や特殊な技術を持つ職人を起用しました。

さらに、新しい町を築くために全国から商人を呼び込みます。しかし戦乱の世では、敵襲があれば町はたちまち火の海になります。命の安全が保証されなければ、商人が集まるはずがありません。

信長が商人確保のために打ち出したのが、自由な商取引を認める「楽市楽座」でした。しかし早雲は、まったく異なる発想を持ちます。

「城下町ごと城壁で囲んでしまえばよい!」

これは中国式の城塞都市を模倣したものです。当時の戦国大名の居城には町は含まれておらず、敵が攻め込めば町だけが真っ先に焼かれるのが常識でした。そこで小田原では、城下町全体を石垣と堀で囲む巨大な総構え(そうがまえ)を築き上げたのです。

こうして「北条の殿様は、石垣で商人の町や庶民の暮らしを守ってくれる」という評判は各国に広まり、小田原へ移り住む商人は次第に増えていきました。

「殿様が守ってくれるから、安心して商売ができる」。こうして小田原の城下町には商業地がぎっしりと立ち並び、さまざまな特産品を扱う店が軒を連ねるようになりました。

定住する商人たちは次第に自分の町への愛着を深め、やがて自主的に町を掃除する動きが生まれます。その結果、小田原はほこりひとつない美しい町へと変わっていったのです。

こうした早雲の姿に触れるうち、町人たちの心は自然と城主である北条氏への憧れへと向かっていきました。

武田信玄2万の大軍すら撤退させた難攻不落の城

そんな折、甲斐の名将・武田信玄が2万の大軍を率いて小田原へ攻め寄せます。しかし偵察の報告を受けた信玄は、「攻めればこちらが死ぬ」と判断し、慎重に兵を引きました。

戦国有数の名将・武田信玄が撤退したという噂は瞬く間に広まり、小田原城は「難攻不落の名城」と呼ばれるようになります。これはすべて、民政を重んじ、商人を保護・育成する早雲の方針があってこそでした。

そもそも早雲は人生の大半を流浪の日々の中で過ごしています。旅の途上で「世の中にとって経済こそが重要だ」ということを肌で感じ取っていたのです。そして相模国・小田原において、その体験を実践へと移しました。

さらに早雲には、大名と商人を対立させるのではなく融合させ、そこに暮らす人々の幸せを図るという明確な政策がありました。この方針は子孫にも忠実に受け継がれ、秀吉の大軍が押し寄せるまでの約100年間、貫かれ続けたのです。

そして後に、その遺産を丸ごと引き継ぐことになった徳川家康を、大いに悩ませることになるのでした。