保元の乱の後、武士の勢力が一気に台頭しました。その中心となったのが平氏と源氏という二大武士団であり、両者はまさにライバル同士といえる存在でした。
先に頭角を現したのが平清盛率いる平氏です。しかし清盛はこの時期に重大な過ちを犯し、結果として自ら滅亡への道を歩むことになります。それが、源氏の嫡男・源頼朝を処刑しなかったということです。
源頼朝を生かしてしまったことが仇となり、平氏はやがて滅亡へと追い込まれていきます。
本記事では、保元の乱と平治の乱を振り返りながら、平清盛最大の失敗となった源頼朝の扱いについて詳しく見ていきましょう。
保元の乱と平治の乱
保元の乱の後も、政情は安定しませんでした。二条天皇派と後白河上皇派が対立するなか、上皇の側近として権勢を強める信西を快く思わない勢力が、両派の内部に存在していたのです。
こうして政局はますます複雑かつ不安定な様相を呈するようになりました。
そこで反信西派の藤原信頼がクーデターを計画します。ここに加わったのが、頼朝の父である源義朝でした。源氏の所領が同じ東国にあったこともあり、両者の利害は一致したのです。
そして起こったのが、平治元年(1159〜1160年)の平治の乱でした。
京都を離れていた清盛は当初こそ動揺しますが、次第に体勢を立て直すと、藤原信頼・源義朝を撃破します。
清盛に敗れた義朝は、東国へ逃れる途中で子供たちと別れることとなり、最終的には捕らえられて処刑されてしまいました。父と別行動となった頼朝たちも追っ手に捕らえられ、清盛のもとへ送られます。
敗軍の将の子として、全員死罪は免れないと思われていました。ところが、清盛の継母にあたる池禅尼が、わずか13歳の頼朝を見て助命を嘆願したのです。
助命の理由には諸説ありますが、早世した実の息子・家盛に頼朝が似ていたからだといわれています。清盛はこの池禅尼の嘆願を受け入れ、頼朝を伊豆の蛭ヶ小島へ流刑にしました。
この池禅尼は、清盛の継母であるだけでなく、保元の乱の際には崇徳天皇の皇子・重仁親王の乳母を務め、後白河上皇側に付くよう働きかけた功労者でもありました。
ここで話を終えれば美談ですが、歴史は残酷です。
その後、伊豆で成長した源頼朝は源氏の棟梁として立ち上がり、平氏打倒の兵を挙げます。そして源平合戦の末、ついに清盛率いる平氏を滅ぼすことに成功したのです。
徳川家康が平清盛の失敗から学んだこと!?
この歴史的な失敗は、『吾妻鏡』にも記されています。この書物を愛読した徳川家康は、これを自らの教訓としたのです。
今川家の人質だった頃から読書家だった家康は、平氏と源氏の興亡を描いた『吾妻鏡』に夢中になりました。そこには当然、清盛と頼朝の逸話も書かれています。
家康自身、太閤・豊臣秀吉の下で天下を取ることができました。それでもなお、豊臣秀頼だけは生かそうとはしませんでした。秀頼を生かしておけば、将来必ず徳川にとって脅威になると知っていたからです。そのため天下を取った後、最後の大仕事として豊臣氏を滅ぼしたのでしょう。
清盛は母の言葉を受け入れたことで、平氏滅亡という最大の失敗を犯してしまいました。一方の家康は、この失敗を教訓として感情に流されることなく冷徹な決断を下し、260年に及ぶ江戸幕府の歴史を築き上げたのかもしれません。