戦国大名の中でも、織田氏は多様な人材を積極的に登用していた点で際立っており、当時としては極めて異例な存在だったといわれています。
一般的な大名の家では一門や譜代の重臣を中心とした組織を構築するのが普通でした。ところが織田氏は、領土の拡大に合わせて適材適所の人員配置を進め、身分や出自にとらわれず有能な人材を抜擢していきました。
常識にとらわれない人材起用によって、織田信長は天下統一へ向けて支配の領域を一段ずつ広げていきます。日本史上トップ10に入ることは間違いない名将・織田信長が、実際にどのように家臣を率いていたのか、その実像に迫ってみましょう。
桶狭間の戦いに見る戦略眼
織田信長が天下にその名を轟かせたのは、「東海道一の弓取り」と謳われた今川義元を破った桶狭間の戦い(1560年)です。今川軍は2万5000という圧倒的な兵力を擁し、織田方の砦を次々と陥落させていきました。
一方、信長の居城・清洲城では、籠城すべきか出撃すべきか結論が出ぬまま時間だけが過ぎていきました。そんな折、今川義元の本隊が桶狭間付近で休息しているという報告が入ります。ここで信長は家臣たちを鼓舞し、出陣を決断しました。
急な出陣で集まったのはわずか2000ほどの兵力。それでも信長は兵を進め、今川本隊への強襲を開始します。運よく激しい雨に恵まれたこともあり奇襲は成功し、今川義元を討ち取ることに成功しました。
この戦いの最大の功労者は、義元の首を挙げた毛利新介ではなく、義元の居場所を的確に伝えた梁田政綱だったというのが現在の定説です。ただし、これを裏付ける確かな史料が乏しく、詳細は不明とされています。
当時、包囲された場合は籠城して援軍を待つのが常識でした。しかし、今川氏という巨大勢力を敵に回す中で織田家に加勢する大名などおらず、籠城は敗北を意味していました。
つまり、当時の織田信長にとって唯一の活路は、少数精鋭で今川義元の本隊に奇襲をかけることしかなかったのです。冷静な判断と覚悟のもと、味方にも犠牲を強いる賭けに出ながら見事な勝利を収めた――そこにこそ信長の偉大さがあります。
とはいえ、信長がその後も常にこうした無茶な戦い方をしていたわけではありません。「先勝ちて後ぞ戦う」と孫の兵法書に記される言葉の通り、負けた戦から徹底的に学び、勝てる戦のための準備を怠らない人物でした。
織田家の実力主義(能力主義)
続いて紹介するのは、成果主義を体現する戦いの例です。
第一次木津川口の戦いでは、石山本願寺と対峙する織田軍は苦戦を強いられました。本願寺の要請を受けた毛利氏は、海上から石山本願寺へ直接物資や兵を補給する作戦に出たのです。当時の織田水軍は伊勢・志摩周辺の海賊約300隻、一方の毛利水軍は瀬戸内海を中心に村上・乃美両水軍を含む約800隻。数でも質でも毛利方が大きく上回っていました。
当時最強と謳われた毛利水軍は、織田水軍を次々と撃破していきます。その敗色濃厚な織田水軍の中で最後まで踏みとどまったのが九鬼嘉隆でした。
第一次木津川口の敗北で毛利軍の本願寺への補給を許した信長は、嘉隆に対して大型の船体と鉄砲の搭載を命じ、焙烙火矢では燃えないよう鉄板で覆った鉄甲船を建造させます。全長約22メートル、幅約12メートルともいわれるその巨船は、当時の常識をはるかに超える規模でした。
こうして完成した鉄甲船6隻は、第二次木津川口の戦い(1578年)で村上武吉率いる毛利・雑賀水軍600隻と再び対峙します。当時「鉄は水に浮かない」と考えられていたため、その常識を覆す水上要塞の出現は、毛利水軍に大きな衝撃を与えました。
それでも毛利水軍は焙烙火矢による攻撃を仕掛けますが、鉄張りの船体は燃やすことができません。側面からの接舷切り込みも試みましたが、逆に大筒による砲撃を受けて大将船が狙われ、指揮系統を崩されて敗走しました。
こうして毛利水軍を駆逐した織田水軍は、石山本願寺の補給路を遮断することに成功。追い詰められた本願寺は開城へと至ります。九鬼嘉隆は本願寺攻略と鉄甲船開発の功績により、海賊大名として大成を遂げました。
石山本願寺制圧の勝利は、信長の突飛な発想と、それを実行できる人材を大胆に抜擢したことの賜物です。組織内で最適な人材に権限と資金を与え、期限を設定して一任する――それが信長のやり方でした。
信長の戦い方は常に敵味方双方に分析され、その答えとなる発想は、常識にとらわれないシンプルなものだったといいます。織田家中にそれを成し遂げられる人材がいれば、身分や出自に関係なく活躍の場を創出し、成果を挙げれば相応の評価を与えていました。
この戦いの後、信長は譜代の重臣である佐久間信盛と林美作守を追放しています。佐久間は本願寺との戦いでの不手際が原因とされ、林は過去の裏切り以降、目立った戦果を挙げられなかったことが理由でした。本人たちからすれば理不尽極まりない仕打ちに映るでしょうが、功績のない者には容赦がない――それが信長という人間でした。
まとめ
注目すべきは、本質を見抜く能力と、それを実行に移す行動力を、硬直的な組織の中で発揮できたという点です。
戦国時代の下剋上の風潮は、融通のきかない社会制度や常識を打ち壊し、誰もが立身出世を目指す動機付けとして十分に機能していました。さらに織田家では、身分の上下だけでなく女性の活躍についても記録が残されています。
女性の地位が低かったこの時代に、政治や人事に女性が関与するのは、織田家ほど顕著な大名の家は珍しかったとされます。その後のこの潮流は、豊臣秀吉や徳川家康にも受け継がれていきました。
信長には、目標達成のために常識にとらわれない発想と実行力を備えながらも、自分と考えの異なる人間には興味を示さない一面があるように思えます。
織田信長が成し遂げたことの本質は、物事の本質をシンプルにつかむこと、身分に関係なく成果を挙げた者を正当に評価すること、そして過去の慣習や常識にとらわれない奇抜なアイデアを形にすることにあると思います。それこそが彼の成功の秘訣なのでしょう。
もちろん、すべての家臣がこの思想についていけるわけではありません。だからこそ明智光秀による謀反(本能寺の変)という悲劇を招いたのかもしれません。もし信長が自らの姿勢をより明確に示すことに専念できていれば、共感する人材を惹きつけ、組織をさらに強固にすることもできたかもしれません。