【頑固一徹】 頑固な人に対してこういった慣用句を使うこともありますが、今使われていることわざや慣用句は歴史上の人物が由来となっていることが多いです。
稲葉義道 それは 美濃三頭政治 です。 通称安藤守就、 氏家直友(なおとも) といいます。 同時に、織田信長は美濃侵攻において非常に重要な役割を果たした人物でもあります。
やがて、一族は大名として生き残り、子孫を残すことになる。
そこで今回は頑固一徹です。 稲葉義道(一鉄)
について書きたいと思います。※大河ドラマでは良ドリと呼ばれているため、今後は良ドリで統一します。
稲葉義道の生涯と年表
稲葉義道 土岐家に仕える家臣の家に生まれる。
しかし美濃の国は斎藤道三です。 彼は織田信長が統治していた時代に斎藤家に仕えました。 。本能寺の変で信長は、織田家に従って侵攻するも、明智光秀に敗れます。
本能寺の変後は光秀に従わず中立を保っていたが、秀吉が力を強めると豊臣家に仕えることになる。 斎藤道三、織田信長、 豊臣秀吉 元気に歩いて最期は亡くなったと言われています。
稲葉良道の生涯年表
- 1515年、稲葉家の六男として生まれる
- 1525 年、兄弟の戦死により家を継ぎました。
- 1556年:長良川の戦いで斉藤義龍に従軍
- 1567 年 織田家に仕える
- 1568年:観音寺城の戦いで和田山城を包囲し、信長常楽を果たす
- 1570 年 姉川の戦い、野田城、福島城の戦い、軍を指揮
- 1584 小牧・長久手の戦い これが彼の最後の登場です
- 1588 年死亡
永正15年(1515年)、美濃の国人稲葉道則に生まれるが、六男であったため当初は寺に入った。しかし、兄弟の相次ぐ死により家を継ぐ機会が巡ってきて、稲葉家を継ぐことになる。
美濃三人衆時代と斉藤氏
まずは土岐頼芸です。 仕えていたのですが斎藤道三です。 頼芸が追放されると斎藤家に仕え、美濃三人衆の一人、美濃国人の重要人物として活躍する。三人の中でも第一人者と言われているのが義通であり、斎藤家から絶大な信頼を得ていたと言われています。
1556 斎藤道三・義龍親子長良川の戦い ならば、私は義龍の味方だ。
道三との戦いに勝利した義龍は美濃を統治し始めると、次第に同盟国だった織田家と敵対するようになった。義龍の妹の濃姫は信長の勢室に嫁いでいますが、彼女は勢室の子で義龍は側室の子なので、あまり親しくなかったのかもしれません。
しかし義龍は残念ながら早世し、長男の龍興が家督を継いで本格的に信長と交戦し、義龍は森部の戦いで活躍しました。旧家臣らの尽力で織田軍の侵攻を食い止めていた斎藤家は家臣団の進言に耳を貸さず、無人な行動が目立つようになった。
こうした状況を背景に、 斉藤家家臣たちは当主に対する不信感を募らせるばかりだった 1564 年 。美濃三人衆の一人、安藤守就です。 そして甥の竹中半兵衛です。 わずかな兵力で稲葉山城を占領する。
その後、盛就と半兵衛は稲葉山城を斉藤龍子に返還したが、この事件をきっかけに斉藤家の衰退が表面化した。
1567年、美濃三人衆は織田信長に降臨し、稲葉山の戦いで稲葉山城は落城しました。
織田信長の家臣時代
稲葉山の戦い後は稲葉義道(一鉄) です。 織田家の家臣として仕えることになるが、その後は明智光秀と同じく転職組の一人となるが、その戦いは不敗と言われているため、信長の信頼も得ている。だったようです。
特に観音寺城の戦いです。 次に和田山城です。 攻城戦と 姉川の戦い そして先鋒を務めて信長を大いに喜ばせ、信長から書状が届くほど活躍した。しかもそれにひるむことなく、同じく戦賞を受賞した徳川家康に贈ったのです。
野田城と福島城の戦い 軍を指揮して 滋賀攻め を行っています。 そして、この時60歳を迎えようとしていますが、生涯現役であり、武将の鏡とも言われています。
高齢にもかかわらず、 一乗谷城の戦いで敵将朝倉義景を討ち取った。 美濃清水城 それを得る。
その後、戦争も落ち着き、65歳で家を引き渡されました。
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本能寺の変後の豊臣政権下
娘を明智光秀の右腕・斉藤利三に嫁がせており、光秀とは不仲とは言えなかった。設定しました。
当時、自領内では安藤守就派が光秀に同調して動いており、それを阻止すべく対峙した際に安藤派を滅ぼした。
その後、豊臣秀吉が政権を握ると秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いでは岩崎山の砦を守りました。いくら戦争の名手とはいえ、この時すでに70歳を超えており、最前線には出てこなかったようだ。
これが稲葉義道の最後の戦いとなり、その後彼は静かに暮らし、戦場ではなく畳の上で亡くなった。
頑固一徹の由来
「頑固一徹」とは?
今では立派な四字熟語ですが、 『 頑固 「 難しい 頑固 .. 一徹とは?その稲葉義道です。 を指しています。 ※ここでは一鉄と呼びます。
ではなぜ稲葉良道に由来するのでしょうか?
一徹の頑固エピソードとしては…
前述の通り、戦で活躍した稲葉義道は、 信長から【 信長 】の褒美を与えられています。 。キャラクターを獲得すると書きましたが、一徹さんはこの申し出を断りました。
実はこれは当時の常識では素晴らしいことであり、報酬を謙虚にするのが一般的ですが、 「 名前をつけてみましょう 」 断ることのできない申し出です。断ると相手を拒否することになります。しかも相手は信長。
信長に対しても自分の意見を曲げず、その毅然とした態度から頑固者と言われていました。その態度から信長は裏切りを疑ったが、無実を説き続け不問に付されたというエピソードもある。
このことから、 【相手が誰であっても、自分が思ったことを貫きます。そして最後まで自分の意見を変えないようにしましょう。 』という個性だったと言えるでしょう。
よく言えば芯が通る、悪く言えば【頑固な人】になります。
このような逸話から稲葉義道=頑固⇒頑固一徹⇒「頑固一徹」 となります。 生まれました。
ついに...
稲葉義通(一徹)は、斎藤家では美濃三人衆の一員としても重宝され、また織田家でもその兵法に優れた外国人として重宝されています。もしこんな人間が役に立っていたら、斉藤家にはまた別の運命があったかもしれない。