アジアの歴史

ニクソン大統領のカンボジア秘密爆撃の真相――「ホーチミンへの爆撃」という誤解を解く

ベトナム戦争期のニクソン政権について語られるとき、「カンボジアのホーチミンへの秘密爆撃」という表現を目にすることがあります。しかし、この言い方には重要な誤解が含まれています。まず押さえておきたいのは、ホーチミンとは人名であり、カンボジア国内の場所や施設を指す言葉ではないという点です。ホーチミンは北ベトナム(ベトナム民主共和国)の指導者であり、1969年9月に死去しています。

実際に行われたのは「ホーチミン・ルート」への爆撃

当時、南ベトナムの共産勢力(北ベトナム軍および南ベトナム解放民族戦線)は、隣国ラオスとカンボジアの領内を通る補給路網を使って、兵員や物資を前線へ送り込んでいました。この補給路は「ホーチミン・ルート」と呼ばれ、その一部はカンボジア東部の国境地帯にも達していました。

リチャード・ニクソン大統領は1969年3月、このカンボジア領内の共産側拠点に対するB-52爆撃機による空爆を極秘に承認しました。これが「メニュー作戦(Operation Menu)」と呼ばれる一連の作戦で、「ブレックファスト」「ランチ」「スナック」「ディナー」「デザート」といったコードネームが付けられています。

なぜ「秘密」だったのか

この爆撃は、アメリカ国民や連邦議会から隠される形で実施されました。作戦の記録は通常の記録とは別に管理され、公式文書上は南ベトナム領内への任務として偽装されていたとも伝えられています。爆撃の実態が公になったのは1973年になってからで、議会や世論に大きな衝撃を与えました。

爆撃の目的

ニクソン政権の狙いは、主に以下の三点に整理できます。

  • カンボジア領内に築かれた北ベトナム軍の基地・兵站拠点の破壊
  • ホーチミン・ルートを通じた兵員・武器・食糧などの補給遮断
  • 米軍撤退(ベトナム化政策)を進める間の南ベトナム側防衛態勢の強化

結果と影響

爆撃は1973年8月まで断続的に続けられました。その結果、大量の民間人の犠牲者が発生しただけでなく、カンボジア国内の政治的混乱が深刻化し、ポル・ポト率いるクメール・ルージュの勢力拡大を助長したとの指摘が有力です。さらに、この秘密作戦の暴露は、大統領の戦争遂行権限をめぐる議会との対立を激化させ、1973年の戦争権限法(War Powers Act)成立の一因となりました。

まとめ

つまり、「ニクソン大統領がカンボジアの『ホーチミン』を爆撃した」という問いの立て方は不正確です。正しくは、ニクソン大統領が、カンボジア領内にあったホーチミン・ルート(共産側の補給路)とその周辺拠点に対して、議会や国民に知らされないまま爆撃を命じたというのが史実です。ホーチミン本人は爆撃開始の同年に死去しており、彼個人を標的とした作戦ではありませんでした。