
福島正則(ふくしま まさのり)は、幼少の頃から天下人・豊臣秀吉に仕え、「賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍」の一人として、同じ七本槍の加藤清正と並び称される著名な武将です。
関ヶ原の戦いでも武功を挙げ、49万石の大名にまで出世しました。
しかし正則は豊臣家の恩顧を受けて育った人物だったため、江戸時代になると周囲からの風当たりが強くなります。
ついには無許可での城の修復という違反により所領を没収され、後に「福島家改易」という道をたどることになります。
大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした徳川氏にとって、豊臣出身の武将たちは障害だったのでしょうか。
今回は福島正則の生涯を詳しく紹介します。
豊臣秀吉といとこ関係!?

1561年、尾張国(現在の愛知県)に生まれました。
正則の母は秀吉の母の妹にあたるため、正則は秀吉と従兄弟(いとこ)の関係にあります。
父は桶屋でしたが、後に秀吉の家臣となり、正則も幼い頃から秀吉の身の回りの世話をする小姓(こしょう)として仕えるようになります。
同時期に、一歳年下の加藤清正も秀吉と親戚関係だったことから、同じく小姓として仕えていました。
18歳頃には、秀吉に従って「中国攻め」の「三木合戦」で先陣を飾ります。
その4年後、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれると、秀吉と正則は中国地方からの大返しにより、わずか11日で京都にて光秀を打ち破りました。
この「山崎の合戦」で武功を挙げた正則は、元々200石だった禄高(ろくだか)が500石に増加します。禄高とは、今でいう給料のようなものです。
賤ヶ岳七本槍から大名へ!
信長の死後、柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉との間で織田家の家臣団が二分し、「賤ヶ岳の戦い」が起こりました。
この戦いで大活躍した正則は「賤ヶ岳七本槍」の一人となり、他の6人は恩賞として3000石ずつ与えられた中、ただ一人5000石を与えられました。
加藤清正はこの待遇に納得していなかったと言われています…。血縁関係が秀吉に一番近かったことが影響したのでしょうか。
翌年の24歳頃には、織田・徳川連合軍との「小牧・長久手の戦い」に父とともに参加します。
その後、「四国攻め」「九州攻め」を経て、27歳頃に伊予国今治(現在の愛媛県)11万石の大名となります。
「小田原征伐」に参加し、秀吉は天下統一を果たします。
「朝鮮出兵」では、第5隊の大将として二度朝鮮へ渡りました。
35歳頃には尾張国清洲24万石(現在の愛知県)を与えられ、豊臣姓を名乗ることを許されています。
文吏派と武断派!?
豊臣政権には「文吏派(ぶんりは)」と「武断派(ぶだんは)」という二大派閥がありました。
秀吉の第一の家臣と言っても過言ではない石田三成(文吏派)と、正則や加藤清正ら武断派との仲は、朝鮮出兵をきっかけにさらに悪化し、暗殺未遂事件まで起こっています。
この仲裁に入ったのが徳川家康です。それゆえ、家康との関係はますます親密になっていきました。
関ヶ原の戦いは豊臣対徳川ではなく、豊臣家内の文吏派対武断派の争いであり、家康はこれに乗じて豊臣家を二分化することに成功したのです。
関ヶ原の戦い開幕!

豊臣秀吉の死後、徳川家康は豊臣政権の法令を次々と破り始めます。
「私的な徒党を組まないこと」「大名同士の無断結婚の禁止」などです。
彼は各大名の屋敷を頻繁に訪れ、養子縁組を重ねました。まるで味方を増やすかのようです。
実際、正則の養子にも家康の養女が嫁いでいます。
家康と同じ五大老の一人である上杉景勝は、政治的影響力を強める家康に対抗しようと、自国で軍備増強に着手します。
家康は景勝に「何を企んでいるのだ」と問いただす書状を送ります。
一方、景勝の家老・直江兼続は、皮肉たっぷりの「直江状」を送り返します。
家康はこれに激怒し、「会津征伐」に向かいます。
正則も6000人を率いて従軍します。
その途中、石田三成が挙兵したという知らせが入ると、諸大名はどちらにつくべきか動揺します。
そんな中、正則は真っ先に東軍への参加を宣言し、決戦の地・関ヶ原へと向かうのです。
江戸時代の福島正則
関ヶ原の戦いでは、五大老の一人である宇喜多秀家の1万7000の軍勢と渡り合うほどの大奮闘を見せます。
そして東軍の勝利が決まると、正則は安芸国と備後国(現在の広島県)49万8000石を手に入れました。
豊臣vs徳川「大坂の陣」!
世の中が徳川政権になっても、正則は豊臣家の恩義を忘れることはなく、秀吉の子・豊臣秀頼が病気の時には大坂城へ見舞いに訪れています。
伏見城での家康と秀頼の会見では、反対していた豊臣側を説得し、徳川と豊臣の間を取り持つ役割を担いました。
しかしその直後、武断派の盟友である加藤清正、浅野幸長、池田輝政といった豊臣の後見人となる大物たちが相次いで亡くなり、3年後の1614年、ついに豊臣対徳川の「大坂の陣」が勃発します。
正則は立場上、秀頼側に加わることを拒みましたが、徳川軍に参戦することもできず、江戸で謹慎することになります。
福島家の一部の者は豊臣方に加わり、正則の弟は豊臣方に通じた罪で処罰されました。
大坂の陣で豊臣氏は敗れ滅亡します。
豊臣家に一身を捧げてきた正則は、どんな思いだったのでしょうか。
関ヶ原での選択は間違いだったと思ったのでしょうか。
その後、家康の死の直前に会いに行くと、
「徳川に不満があるなら、遠慮なく兵を上げよ」
と冷たく言われたそうです。
「今日まで徳川家のために働いてきたのに、何と無礼な!」
と泣いたと言われています。
しかし家康は、正則の本心を確かめたかったのだとも言われています。
正則にとっては、関ヶ原で豊臣を裏切ったかもしれないという思いがあり、そこへ家康に冷たくされたことで、自分の選択は誤りだったのかもしれないと感じたのかもしれませんね。
福島家改易…

1619年、台風による洪水で広島城が損壊します。
関ヶ原の戦いで西軍の総大将だった毛利家は敗北し、周防国・長門国(現在の山口県)へ移封されていました。
毛利家の領地に隣接する正則は、これを牽制するため巨大な亀居城を築いていました。
しかし、これは「一国一城令」の違反となり、破却を命じられます。
そして今回、「広島城台風問題」が「武家諸法度」の違反とみなされました。
2か月前には届け出を出していましたが、正式な許可が出る前に修復してしまったため、「無断修繕」と言われてしまったのです。
正則は詫びて「本丸以外の修復箇所の破却」を条件に出しましたが、「本丸だけ残すのは破却不足」と責められます。
さらに、嫡男・福島忠勝を人質として江戸へ送るはずだったのに出発を遅らせたことも咎められます。
これらの結果、正則は安芸・備後50万石を没収され、信濃国(現在の長野県北部)と越後国(現在の新潟県南部)の4万5000石へと大幅減封されてしまいました。
現代と江戸時代では感情や価値観が異なるとはいえ、あまりにも厳しい仕打ちです。
徳川家が豊臣の後見人である正則を恐れていた、という見方もあります。
翌年、嫡男・忠勝の死去により2万5000石を幕府に返上します。
そしてその4年後、正則は64年の生涯を閉じました。
その後、正則は幕府の検使が到着する前に荼毘に付されたため、残りの2万石も没収され、福島家は取り潰しとなってしまったのです。
まとめ
今回は、幼少の頃から天下人・豊臣秀吉に仕えた武将、福島正則の生涯を紹介しました。
正則にとっての転機は、やはり関ヶ原の戦いでの選択だったと言えます。
勝者となり49万石の大名にはなれたものの、悔いを抱えたまま過ごした日々もあったかもしれません。
東軍についたことが豊臣への裏切りでなかったとしても、徳川に勢いをつけるきっかけを与えてしまったことは否めません。
勝てば官軍とは言いますが、勝てばすべてが幸福になるというわけではないのですね…。